第4章 リーゼ・マイトナー
原子の中へ
――原子の中へ――
〔1907年 ドイツ ベルリン〕
28歳のオーストリア人、リーゼ・マイトナーは、内気な女性でした。ベルリンにやって来たこの若き物理学者は、不安でいっぱいだったものの、放射能という新しい分野に力を尽くそうと決めていました。ところが、1907年当時、ドイツの大学は女性を採用していなかったのです。そこへ、一人の男が手を差し伸べました。
ハーン「マイトナーさん?」
リーゼ「はい…。」
ハーン「オットー・ハーンです。僕は科学研究所の研究者です。プランク教授から…」
リーゼ「あ、あなたのトリウムとメソトリウムについての論文は読みました。私もプランク教授から…」
ハーン「ああ、そうなんです。あなたをパートナーにと勧められまして。」
リーゼ「私、物理学の立場からお手伝いできると思います。」
ハーン「数学では?」
リーゼ「ええもちろん。数学でも。」
ハーン「放射性元素の研究には、化学と物理学の協力が欠かせないし。」
リーゼ「そうですね。」
ハーン「ならフィッシャーに、実験室を頼みます。」
リーゼ「ああ…ありがとう。」
ハーン「それじゃあ、また。」
リーゼ・マイトナーは、世界の歴史を変えることになる研究への第一歩を踏み出しました。この先彼女を待つものは、成功と名声、そして恐怖と、裏切りでした。
デイビッド・ボダニス 作家「当時、原子のことはまだよくわかっていませんでした。最初、原子は細胞組織のミニチュアのようなもので、中央に固い原子核があり、電子がその周りを飛び回っているとされていました。
その後、原子核はぎっしり中身が詰まった塊ではなく、陽子と中性子からなっていることがわかりました。ラジウムやウランなどの放射性元素には、原子核自体が不安定で、エネルギーや粒子を放出するものがあります。原子核の中に、E=mc^2が約束したエネルギーが潜んでいると推測されていたのです。」
木の小屋の実験室
原子の秘密を探ろうと、パートナーになったハーンとマイトナーでしたが、待遇には大きな差がありました。彼には実験室が与えられましたが、彼女には木の小屋でした。
オットー・ハーン「髪は無事だったみたいだね。」
リーゼ・マイトナー「うん?…ハーンさん。」
ハーン「ボスは女性を研究室に入れると、髪の毛を燃やしてしまうと思ってるんだ。」
リーゼ「ああ。男性のひげは燃えないのかしら。あは…」
ハーン「はっ。」
大学部内者「こんにちは。ハーン君。」
ハーン「こんにちは。」
リーゼ「はぁ…。ほらね。みんなして私を無視するの。物理学者は認めてくれているのに。」
ハーン「まったくだ。僕たち科学者には、物理学者の手が必要なのに。」
ルース・ルイン・サイム 作家「何年もかけて、リーゼは内気を克服しました。1912年、彼女とハーンは、カイザー・ヴィルヘルム研究所に移り、共同で研究を進めました。リーゼは女性として初めてドイツで大学教員になりました。」
ハーン「リーゼ。」
リーゼ「んー?」
ハーン「大ニュースだ。」
リーゼ「何…?」
ハーン「美術学生の子の話、しただろ。」
リーゼ「ええ。イリスね。」
ハーン「ああ。実は、その…彼女と結婚することにしたんだ。」
リーゼ「ああっ、ハーンさん、おめでとうございます!」
ハーン「ああ…その…君に…最初に、言いたくて。」
リーゼ「ああほんとに、決まってよかったですね。……おめでとう!」
ルース・ルイン・サイム 作家「リーゼ・マイトナーは心優しい女性で、友達も多く、オットーと親しくなりたいと思っていたかもしれません。でも、リーゼの恋人はやはり物理学であり、情熱は物理学に向けられていたのです。」
ナチスドイツ
1920年代と30年代は、原子核研究の黄金時代でした。当時もっとも大きな原子核を持つのはウランで、238個の陽子と中性子を持っていましたが、二人は、さらに中性子を加えることで、もっと大きな原子核を作ろうとしました。
リーゼ「さて、原子です。知ってますよね。中央には原子核。その周りを、電子が運動している。狙うのは原子核です。原子核を作るのは陽子と中性子。さて、知られている最も大きい原子核はウランの原子核です。ウランの原子核の中にはぎっしり隙間なく、238個の陽子と中性子が入っている。研究の狙いは、中性子を照射して、原子核のこの構造の中に打ち込むこと。もし中性子が一つでもとどまり核が大きくなったら、画期的なことだといえます。」
マイトナーはもう少しで、大発見のところまで来ていました。しかし1930年代のドイツは、世界的な科学者である彼女にとっても、危険でした。
ユダヤ迫害
「ユダヤ人がいるとまずいことになる…。」
ルース・ルイン・サイム 作家「ナチ党は権力を握ると、まずユダヤ人の知識人を大学から追放しました。アインシュタインは傑出した存在でしたから、誰よりも早く1933年にドイツから追われました。リーゼはまだ安全でした。オーストリア生まれだったからです。でも1938年3月、オーストリアがドイツに併合されると、立場が危うくなりました。」
オットー・ハーン「どうした。」
リーゼ「ああ…なんてひどいことを。クルトフェスが私を追い出せって言ってるんですって。」
オットー・ハーン「それは、僕も聞いた。でもまず、研究所の財務担当者に話してみようと。明日会う予定だ。」
リーゼ「ああ…」
オットー・ハーン「さあ、君はお帰り、もう(時間が)遅い。あとは任せろ。」
マイトナーへの圧力は耐えがたいものでした。ナチスに批判的だったハーンは、彼女を守ろうとしました。少なくとも最初は。
ハーン「リーゼのことでお話が。」
財務担当者「ああ今は時間がない。」
ハーン「守ってやらないと。」
財務担当者「はぁ…どうやって。」
財務担当者「何ができる。こういう状況なんだぞ。明日はどうなるか。うちの研究所に置いておくわけにはいかないんだ。」
ハーン「でもビザもパスポートも持っていないんですよ。いずれ出国も禁止されるかも。」
財務担当者「ユダヤ人は匿えないんだよ。彼女がいると、研究所が閉鎖されてしまう!」
ハーン「リーゼ。」
リーゼ「…ん?」
ハーン「はぁ…。……君は、ここにはいられない。」
助手「リーゼを追い出すつもりなのか!」
ハーン「…もう研究所の中に入れるなと言われたよ。」
リーゼ「……はー…。でも明日トリウムの、放射について書くから、来なくちゃ。」
助手「リーゼを見捨てるのか!」
マイトナーが解雇され、逮捕の危険もあることがわかったとき、ヨーロッパ中の科学者が、彼女を会議への招待状を送りました。ドイツから出国させるためです。しかし、彼女の出国は認められませんでした。1938年、オランダの学者仲間がベルリンを訪問。密かにマイトナーをオランダへ連れ出しました。彼女自身が、途中でもう帰ると言い出したほど恐ろしい旅でしたが、脱出は成功しました。
ルース・ルイン・サイム 作家「彼女はすべてを失いました。家も地位も本も。給与も、年金も。それから、母国語もです。研究では世界のトップを走り、あと一息で大発見というときに、仕事からも切り離されました。」
全てを奪われても、リーゼは物理を忘れられず、ハーンとは手紙でやり取りをしていました。
「“親愛なるオットー。30年間、共に研究を続けてきた友人として、せめて、私たちの実験がどうなっているか、お知らせ願えないでしょうか。”」
リーゼの思考錯誤
〔1938年 スウェーデン クングエルブ〕
ルース・ルイン・サイム 作家「リーゼは、スウェーデンの西海岸で、クリスマスを過ごさないかと友達から誘われました。リーゼの甥で、物理学者のオットー・ロベルト・フリッシュもやってきました。」
フリッシュ「お世話になります。」
リーゼの友達「いらっしゃい。」
フリッシュ「おばさん?……ねえ、こんにちは。……リーゼおばさん。(頭にキスをする)……メリー・クリスマス、おばさん。」
リーゼ「………(夢中で手紙を読みふけるリーゼ)うんっ、ちょっと来て。助けてほしいの。」
フリッシュ「ふっ。僕がおばさんをですか?」
ベルリンでは、ハーンが途方に暮れていました。ウランの原子核に中性子を照射しても、核が大きくなったという証拠が出なかったからです。しかもウランより小さい原子である、ラジウムの存在が確認されました。ハーンはマイトナーのアドバイスを求めました。彼女は、尋常ではないことが起きているのではないかと考えました。
リーゼ「ハーンが言うには、ウランの実験で変な結果が出たそうなの。」
フリッシュ「へえ?」
リーゼ「2か月前にハーンが言ってたの。ウランの生成物に交じってラジウムがあるって。ウランより大きい元素ができるどころか、小さいラジウムが出るなんて。だから確かめてって言ったの。ラジウムのはずがないって。そしたら返事が来て、ラジウムじゃなかったバリウムだったって言うの。」
フリッシュ「あっは。ラジウムより小さい。」
リーゼ「そうなのよ…はぁ。ハーンは何かのミスだって言うけど、何なのかしら。バリウムが生じたっていう可能性はあるけど…。」
フリッシュ「ハーンは一人じゃデータも読めないのか。」
リーゼ「ふ…私の研究でもあるのよ。」
フリッシュ「わかってる。」
リーゼ「でも、ベルリンには行けないしね。さっ、歩きましょ。」
フリッシュ「ハーンが手順を間違えたとか?指示を守らなかったとか。」
リーゼ「あー、それはないわ。ハーンは理論家としては天才じゃない。でも、科学者としての腕はいいもの。」
ルース・ルイン・サイム 作家「大きな水の粒を想像してください。不安定で、今にもはじけそうな水の粒を。ウランのような大きな原子核はこういう状態です。彼らは4年間、この状態の原子核に中性子を照射すれば、原子核は大きく、重くなると思っていました。しかし、マイトナーとフリッシュは、大きくなり過ぎた原子核が二つに割れたのだと気づいたのです。」
核分裂の発見
リーゼ「原子核が大きくなりすぎると、一つでいることが難しくなる。そこへ、中性子のゆさぶりをかけられたら…。」
フリッシュ「ええでも、原子核が二つに分かれたなら、大きなエネルギーを出して飛び散るはず。そのエネルギーはどこからくるんでしょう。」
リーゼ「あっ…。どれぐらいのエネルギー?」
フリッシュ「二つの原子核の相互反発は、約2億電子ボルトのエネルギーを発生させます。」
リーゼ「うん。」
フリッシュ「だけどそのエネルギーの供給源は?」
リーゼ「待って。比質量偏差の計算をしてみる。――二つに分かれた原子核の和は、もとのウランの原子核より、質量で陽子の5分の1軽くなってる。」
フリッシュ「…質量が失われてる?アインシュタインのE=mc^2。」
リーゼ「ああっ。その方程式にのっとって、失われた質量に光速の二乗をかければ…。ちょうど2億電子ボルト。彼は原子を分裂させたのよ。」
フリッシュ「彼じゃない。おばさんの業績だよ!あっはは!」
ルース・ルイン・サイム 作家「驚くべき発見でした。もちろん実験室では、少量のウランしか扱わないので、生じるエネルギーも少量です。しかし重要なのは、生じたエネルギーが相対的に大きいことと、それがウラン自体から生じたことです。生じたエネルギーは、アインシュタインの方程式、E=mc^2で示されます。」
オットー・ハーンの裏切り
マイトナーとフリッシュはこの発見を、核分裂と名付けて発表し、賞賛されました。しかし二人を待っていたのは、裏切りでした。オットー・ハーンはナチスの圧力に負け、ユダヤ人であるリーゼの名を外してしまったのです。この発見で、1944年にノーベル賞を受賞したのは、ハーンひとりでした。彼はスピーチで、マイトナーの功績についてはほとんど触れず、戦争が終わっても、核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けました。
「“――次に、個人的なことを書きます。私にはとても気になることです。40年間の友情と、私を理解しようという気持ちを持って、読んでくださいね。今の私は、ハーンの長年の仕事仲間と言われています。もしあなたが、マイトナーの長年の仕事仲間と呼ばれたら、どんな気持ちがしますか。この15年間、たくさんの酷い目に遭って来たけれど、この上、科学者としての過去まで取り上げるなんて、あんまりです。なぜそんな仕打ちを。”」
デイビッド・ボダニス 作家「マイトナーの研究は30年に及びました。壊した原子の数はといえば、少しだけ。でも成功は、1度だけで十分でした。世界中の多くの科学者たちが続き、その手法を様々な目的に利用しました。」
マンハッタン計画
1942年、原子爆弾製造計画が開始され、極秘施設での開発が始まりました。マンハッタン計画です。
デイビッド・ボダニス 作家「マイトナーも、マンハッタン計画への参加を打診されましたが、断りました。しかし、核兵器競争でナチスに勝つ必要性を感じていた甥のオットー・ロベルト・フリッシュは、研究の中心となりました。」
核爆弾はドイツには使われませんでした。しかし、広島と長崎に原子爆弾が投下され、E=mc^2の、凄まじい破壊力が証明されました。電磁放射という形態の、巨大なエネルギーが、わずかな量のウランとプルトニウムから発生したのです。皮肉にも、優れた科学者たちが純粋に取り組んだ結果もたらされたのが、大量破壊兵器でした。しかし一方でこの方程式には、美しく、創造性に満ちた物語も詰まっているのです。
E=mc^2未来へ
――E=mc^2未来へ――〔アメリカ スタンフォード線形加速器センター〕
現在では、若い物理学者たちがアインシュタインの跡を継いでいます。E=mc^2は、当初から、時間と空間の誕生、つまり、私たちはどこから来たのかという最大の疑問の答えを導くために使われてきました。粒子加速器を使い、研究者たちが原子の粒子を光速近くまで加速させ、それを衝突させてビッグバンと似た状況を作り出します。
「結果はどう?」
「見てみろ。」
デイビッド・カイザー 物理・歴史学者 マサチューセッツ工科大学「E=mc^2は、ビッグバンも説明できます。宇宙創造の最初の瞬間、凝縮されたエネルギーの大爆発が起こりました。そして、凄まじい勢いで膨張し、大量のエネルギーが質量へと変換され、それが、素粒子、原子核、原子となって、最初の星々を形成しました。」
デイビッド・ボダニス 作家「太陽は、E=mc^2にのっとってエネルギーを供給する、巨大な反応炉です。太陽の質量は、毎秒400万トンずつ失われ、それが莫大なエネルギーとなって放出されます。そのエネルギーは、熱と光を持って太陽系全体を照らします。」
ミチオ・カク 物理学者 ニューヨーク市立大学「E=mc^2にのっとって星が放出するのは、エネルギーだけではありません。星の形成過程そのものが、生命を生み出します。巨大な星が死んで爆発すると、やがてそのかけらが集まって、ほかの星の軌道に引き寄せられ、惑星となります。人間も、この地球も、星屑から生まれたのです。私たち自身が、E=mc^2から生まれているのです。」
男子学生「俺の考えでは…条件がそろえば…この現象が起きると思うんだ…。…非常に長い波長で…」
女子学生「うん。」
先駆者たちの業績を足がかりに、新しい答えを探し求めています。光速に近いスピードを実現する、新しい通路を使いこなす彼らの研究は、今までの科学者たちが思いもつかなかったような領域にまで広がっています。
アインシュタインも知っていた通り、発見の旅は、時には苦しく、時に楽しく、人間の好奇心と同じぐらいに古く、決して、終わることはないのです。
〔E=mc^2 アインシュタインと世界一美しい方程式〕制作 Darlow Smithson Productions(イギリス 2005年)
<終>