アインシュタインと科学者たち

ニュートンとゲーテ ~物理学者と文学者が導き出した色の科学~

プロローグ

色とは、光によって導かれる現象の一つです。光がなければ、色は存在できないのです。

——「色は、自然の中にあります。人間の目を通して、景色が見られるとき、そこに、色が立ち現れるのです。」——

色とは何か。この問いかけは、人類誕生の歴史とともに始まり、長い年月をかけて論じられてきました。色について記された世界で最も古い文献のひとつには、こう記されています。

——「色は、白と黒から作り出される。全ての色は、この2色が混ぜ合わさってできたものだ。白と黒からは、何かが生まれ、それが目に見えている。こうして、いまや白と黒のほかに、きわめて多くの色が生まれてくる。」

この言葉を残したのが、紀元前350年ごろに活躍した、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスです。アリストテレスは、白と黒の混合から色が生まれる、と考えました。そしてその考えは、およそ2,000年にわたり、不変の真理とされてきました。

17世紀の中頃から、その真理に現代科学のメスが入れられました。

ガラスでつくられた、三角形のプリズム。このプリズムをめぐり、二人の人物が、全く別の色の理論を残しました。

たくみにプリズムを使い、光から色を導き出したのが、17世紀を代表する物理学者、アイザック・ニュートンです。

そしてもう一人、ニュートンのプリズム実験を批判し、独自の視点で別の理論を作り上げたのが18世紀を代表する文学者、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテでした。

全く異なる立場の二人が研究した色は、現代色彩学の基礎として、いまなお、燦然と輝いているのです。

<ニュートンとゲーテ>

~物理学者と文学者が導き出した色の科学~

アイザック・ニュートン

万有引力の法則。微分積分法の発見などで知られる、近代科学の父、アイザック・ニュートン。イギリスケンブリッジに建つニュートンの石像が手にしているのは、万有引力の法則を発見するきっかけとなったリンゴではなく、プリズムです。ニュートンが行った研究の中で、現代科学に最も貢献したとされているひとつが、実は、プリズムを使って色を解明した研究だったのです。

ウールズソープ村
イギリスの首都ロンドンから北へ150キロほど離れた、ウールズソープ村。アイザック・ニュートンは、この小さな農村で産声をあげました。

ニュートンが生まれ育った家は、350年以上たったいまも、このウールズソープ村に残されています。そしてその庭には、万有引力の法則を発見するもととなったリンゴの木が、いまだに豊かな実を実らせています。

ニュートンが生まれたのは、1642年12月25日のクリスマスの夜でした。子供のころのニュートンの生活は、決して幸せなものとは言えませんでした。ニュートンが生まれる3か月前に父親は亡くなり、その3年後には、母親は再婚をして、家を出て行ってしまったのです。そのため、ニュートンはほとんど外に出ることもなく、一日の大半をこの家で過ごし、物思いにふけることが多かったといいます。

ニュートンの物思い。そのなかで、特に興味を抱いたのが、窓から差し込む太陽の光でした。そして、光への興味は、まず日時計という形で姿を現しました。ニュートンは、何かにとりつかれたかのように、数多くの日時計を製作し、様々なところへ設置したといわれています。

ナショナル・トラスト マーガレット・ウィンさん〔Margaret Winn (The National Trust)}「いまは、小さな石がいろいろとはまっていますけれど、生家のこの角に、もともとニュートンが作った日時計が置いてあったんです。」

コルスターワース教会
ウールズソープ村の近くにある、コルスターワース教会〔Colsterworth church〕。ニュートンが洗礼を受け、父の名であったアイザックという名を授かったのが、この教会です。

教会の壁に、ニュートンの日時計がひっそりと飾られていました。ニュートンは、光と影が作り出す変化に興味を抱き、そしてその変化を、日時計に刻み込もうと考えたのかもしれません。

ナショナル・トラスト マーガレット・ウィンさん〔Margaret Winn (The National Trust)〕「ニュートンは時計がなくても光と影の変化だけで、時間を言い当てることができたといいます。ニュートンは生涯を通じて、光と影に興味を持っていたんです。」

ニュートンが制作した日時計は、現存するもので19個に及びます。ニュートンの科学に対する人並外れた研究者魂は、光へのあくなき探求、そこから始まったといっても過言ではありません。

イギリス南東部に位置するケンブリッジ。14世紀から16世紀にかけて、数多くの大学が建設され、いまも大学町としての伝統を残しています。

トリニティ・カレッジへ

ケンブリッジ
トリニティ・カレッジ
そのケンブリッジで最大の規模を誇る大学が、トリニティ・カレッジです。1546年にヘンリー8世によって創設され、現在までに数多くの著名人を輩出してきました。

1661年、18歳のニュートンは、ここトリニティ・カレッジへの入学を許されました。ニュートンは、ここでも研究に没頭し、自分の研究室からほとんど出ることがなかったといわれます。

わずかな哲学的な疑問
ニュートンが大学3年生の時から使っていたノートが残されています。クエスチョネス クワエダム フィロソフィエ。「わずかな哲学的な疑問」という題名がつけられています。

フィロソフィエ——このころの哲学は、こんにちの哲学と科学の両方を含む概念でした。ノートの中には、科学的な事柄についての疑問から、観察研究した結果などが45の項目に分かれて記されています。

そのなかに、光と色のついての記述も残されていました。光と色の実験。その実験に、ニュートンが使用したのが、一本のプリズムだったのです。

ニュートンのプリズム実験

ニュートンのプリズム実験は、光を遮断した暗室で行われました。暗室に小さな穴をあけ、そこに一筋の太陽の光を導き入れました。彼は、非常に限られた光を一本のプリズムに当てたのです。すると、光は、プリズムによって屈折し、分解されます。光は、七色の色となって姿を現します。

下から、赤、だいだい、黄、緑、青、藍、そしてすみれ色。これが、その後科学の常識となる、ニュートン・スペクトルです。

この結果は、彼のノートにも記されています。光が、プリズムの中で屈折していく様子を、xやyなどを使い、くわしく科学的に表そうとしています。

さらにニュートンは、七色に分かれた色を、凸レンズを使って再び元の光に戻す実験も行っています。これによって、ニュートンは単一のものではなく、さまざまな色に分けることができるというひとつの画期的な結論に達したのです。

プリズムを使って行われたニュートンの色の理論は一冊の書物にまとめられました。オプティクス(OPTICKS)、「光学」と名付けられたニュートンが導き出した色の理論は、2,000年にわたり信じられてきた、アリストテレスの、白と黒の混合から色が生まれる、という理論を覆す、重要な発見となったのです。

❝色とは、光によって導き出されます。物体の色とは、その物体が、最も多く反射した光の一部を、色として認識しているにすぎません。

ある物体は、赤の部分を多く反射してそのほかの色を吸収しているため、赤と認識します。青色に見える物体は、青の部分を多く反射してそのほかの色を吸収してしまうため、青と認識しているに過ぎないのです。❞

現在は、ニュートンの光学を発展させ、色の違いは光の波、波長の違いで起きるとされています。最も長い波長が赤、そして波長が短くなるにつれて、すみれ色へと変化していくのです。

←赤外線 紫外線→
現代の科学はさらに発展を続け、波長の両側にある赤外線や紫外線といった、人間の目には見えない部分まで波長としてとらえることができるようになりました。

プリズムを用い、光によって色を解明した、ニュートンの光学理論。それは、現代色彩学に息づく、いまだ変わらぬ不変の真理なのです。

ロボット工学への応用

ニュートンの光学理論は最先端のロボット工学の分野でも活用されています。

80色に及ぶ色を分析し、選択することができる色認識ロボットが、現在、関西大学の工学部で研究、開発されています。

関西大学工学部 助教授 倉田純一さん「私たちの目には、白黒といいますか、際立てて何か色がついていないものでも、そういうふうなプリズムを使ってそれがいくつかの色に分けることができるというニュートンの実験が、すごく今の工学に役立っていると思います。すなわち私たちが使っている色は、いろんなものの集まりでできていると。ですからその分布をみれば、たとえばインクですとか、染料、そうした私たちの身の回りで使っているものも、そういうふうな形の波長というものを軸にとってみれば、それに対して、高いところがあったり低いところがあったりたくさん成分が含まれたり含まれていなかったりということで、それをもとで色というものを数値化できる、という一つの出発点だったのかもしれません。それを使っていろんな機械もできてきましたし、ここにあるようなテレビカメラでも結局カラーのカメラになったと。ですから私たちが見ているような、カラフルな世界を体現することができるようになったという意味では、大きな貢献があったと思います。」

王立協会の会長へ

プリズム実験ののち、1669年、ニュートンは26歳でトリニティ・カレッジの教授となり最後は王立協会の会長まで上り詰めました。

大学の中にある礼拝堂、トリニティ・カレッジ・チャペル。ここには、カレッジが輩出した数多くの著名人の石像が並んでいます。

色彩学、そしてその後、現代科学の常識となる実験に使われた、プリズム。そのプリズムを手にしたニュートンの石像は、礼拝堂の一番奥にいまも、凛とした姿で私たちを見据えています。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

そのニュートンの光学理論に、反旗をひるがえしたのが、18世紀ドイツの文学者、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテでした。ゲーテは、ニュートンを痛烈に批判しました。

❞友よ、暗室を離れたまえ。光を歪める暗室を。複雑怪奇な像にひれ伏すばかりの、あのみじめな暗室を。❞

戯曲、ファウスト。世界的文豪といわれるゲーテが、その生涯のうち、60年もの年月を費やして書き上げた、不朽の名作です。

——「(注:劇中のセリフ)私は最初全てであったものの部分のまた部分です。つまり光を生み出した闇の一部です。ところが光は母親なる闇と本家争いをしているのですが、まず光に勝ち目はありませんな。どうあがいたところで光は物体にしばられたものですから。」

そのゲーテが、自分の書いた書物の中で将来最も重要となると謳ったのは、ファウストではなく、実は、色彩論でした。全部で3巻にも及ぶ大作、色彩論でゲーテは、ニュートンの光学理論を過激なまでに批判し、全く異なる色の理論を作り上げたのです。

ゲーテの生家〔Goethe Haus〕
ドイツ南西部に位置するフランクフルト。かつては神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われ、現在は、世界屈指の金融都市として有名です。

ゲーテは、このフランクフルトで1749年、ニュートンの生誕からおよそ100年後に生まれました。ゲーテは叔父が当時のフランクフルト市の市長を務める、ドイツでも有数の名家で育ちました。この家の3階には、ゲーテの書斎もあり、そこには、数々のゲーテ作品を生み出した、愛用の立ち机も残されています。

1774年には、この立ち机から、ゲーテを一躍文壇の寵児とさせた名作も生まれました。世界各国でベストセラーとなった「若きウェルテルの悩み」です。若きウェルテルの悩みは、当時ナポレオンも愛読したといわれる文学作品です。ウェルテルという一人の青年が、結婚の決まっていた美しい女性を愛し、その愛に破れ、自殺してしまうまでの物語です。

その美しい女性のモデルになったのが、シャルロッテ・ブッフ〔Charlotte Buff〕です。実際にゲーテはこのシャルロッテと恋に落ちたのです。そのとき、ゲーテ23歳。弁護士になるための実習に向かった、ドイツの地方都市ウェッツラルでの出来事です。

ウェッツラル

〔ウェッツラル Wetzlar〕
豊かな自然に囲まれた、ドイツの町、ウェッツラル。ゲーテとシャルロッテは、ウェッツラルの郊外にある散歩道をよく二人で歩きました。シャルロッテはウェッツラルの豊かな自然をこよなく愛しました。自然に対するシャルロッテのそうした想いは、ゲーテを触発し、ゲーテが生涯を通じて研究していくこととなる自然科学への足掛かりになったといわれています。

植物のメタモルフォーゼ
ゲーテが40歳の時に記した、植物のメタモルフォーゼ。すべての生物には共通の原形があり、多様な生物の形態は、この原形のメタモルフォーゼである、という鋭い洞察を残しました。文学者としてだけではなく、自然科学者としてのゲーテを垣間見ることが出来る記録の一つです。

光と闇の境目から色が生まれる

自然科学者としてのゲーテが記した、生涯最後の大作が、色彩論でした。そのなかで、ゲーテは、ニュートンの光学理論を批判するようになったきっかけについて、こう記しています。

❝私はニュートン理論を思い出し、友人から借りたプリズムを通して、色の層が見えるだろうと期待した。だが、白い壁は白のままで、暗いところと接した部分にだけ、多少とも明確な色彩が現れるだけであった。あれこれ考えるまでもなく、私にはわかった。色彩を生じさせるためには、境界が必要なのだ。本能的に私は叫んだ。ニュートン理論は間違っていると。❞

ワイマール
ドイツ東部の都市、ワイマール〔Weimar〕。かつては、独立したワイマール公国として栄えていました。ゲーテは、ワイマール公国の大臣として招かれました。ゲーテは、1775年からこのワイマールで暮らし、大臣としての政務のかたわら、執筆や研究活動をつづけました。

当時ゲーテが暮らしていた家の隣に、ゲーテに関する資料を所蔵している、ゲーテ博物館があります。数多くある資料の中でも、色彩論に関するものは、200点を超えています。ここに、ゲーテが考えた色の理論を知る上で重要な、一つの資料があります。

「これは、光のカードゲームです。このカードゲームは、ゲーテがトランプ工場で作らせたものです。ゲーテは、このカードをプリズムを通して見て、このような、色彩現象を確認しました。また、このカード(注:写真右)も、プリズムを通してこうした色彩現象を観察したのです。」

ゲーテの色彩論は、白と黒の境目に色が存在するという、アリストテレスの理論に立ち戻るものでした。

白地の真ん中に描かれた、黒い四角。プリズムを通してその境目を見てみると、そこには、黒い四角形を中心にして、上に青い色、下に赤と黄色を見ることが出来ます。色の理論には、光だけではなく、その反対に位置する闇も必要であるとゲーテは考えたのです。

ゲーテ国立博物館 マウル・ジーセラさん〔Maul Gisela(Goethe national museum)〕「ニュートンは数式などを使って科学的に色というテーマにアプローチをしています。それに対してゲーテは、芸術家としてこの色というテーマにアプローチをして彼独自の色彩論を展開したんです。また彼は、色を総合的に理解しようと心がけていました。色彩論の中で彼は人間の感覚的に生じる色についてもくわしく研究しましたし、物理的に生じる色についても、彼自身が開発した数多くの実験器具を使って色というものを総合的に捉えようとしていました。」

ゲーテは、ニュートンの光学理論を批判し、色についての経験を、さまざまな実験器具を用いて研究しました。

さらにゲーテは、さまざまな色彩現象を観察し、光とは何かではなく、色とは何かを捉えようとしました。その研究結果の一つとして、光と闇、白と黒、その境目から色が生まれると主張したのです。

しかし、これはニュートンの光学理論で、簡単に説明できるものでした。白と黒の境界に存在していた色は、ニュートンの光学理論でも確認できます。

ニュートンは暗室の中に、狭く限定された光を導き入れました。その限定されていた光の幅を広くしてみます。すると、ゲーテが反論した境目に浮かぶ色と同じものが映し出されるのです。

光の幅が増えることによって、中心に近い光は7色が混じり合い、元の光に戻ってしまうのです。そのため、両端の重ならない部分だけが色として認識できるのです。

この色は、現代色彩学では、境界色と呼ばれて解明されています。ニュートンが行った、狭く限られた光での実験でなければ光による色の本質は見えてこないのです。

色彩を帯びた影

ゲーテの色彩論は、科学者のあいだから、そして文学者のあいだからも、非難の声が上がりました。ゲーテの友人であったシラーも、色彩論の研究をしなければ、ゲーテはもっと多くの文学作品を書けただろう、と述べました。ゲーテ色彩論の重要性については、長いあいだ研究されませんでした。しかし、20世紀になり、量子物理学者がゲーテの色彩論を評価するようになりました。

量子物理学者 ウォルター・ハイトラー「人間と自然科学的な認識」

ニュートン対ゲーテ
色彩を帯びた影
量子物理学者ウォルター・ハイトラーが記した、「人間と自然科学的な認識」という論文です。ハイトラーは、この本の中で、ニュートン対ゲーテという章を設けて論じています。そのなかでも、彼が特に注目したのが、ゲーテ色彩論の中で記されている、「色彩を帯びた影」でした。

ゲーテが素描した「ブロッケン山」

(ゲーテ)❝私がブロッケン山を夕暮れに降りたときのことだ。日没に近づくと、夕映えの光が、あたりを真っ赤に染めた。すると、陰の部分の色が、緑色に変わったのである。…❞

ハイトラーは、このゲーテが観察した現象を、二つの投光器と、一つの物体を用いて再現しています。

一つの投光器からは赤い光、もう一つの投光器からは、白い光が放たれるようにします。ハイトラーは、この実験で、色彩を帯びた影を確認したのです。

まず、三角形の物体を、赤い光で照らします。深紅に染められた物体の背後には、真っ黒に落ちた影が伸びています。そこに、横からゆっくりと白い光を当てていきます。すると、影は微かに青い色を帯びていきます。皆さんにはどう見えますか。

ハイトラーは、この現象について、これを人間の目の錯覚だという人がいる。しかし、誰が見ても青色を帯びて見えるものを、錯覚と考えるわけにはいかない、と述べています。

それでは、この色彩を帯びた影は、目の錯覚なのでしょうか。それとも、科学的に証明できることなのでしょうか。

分光測色機

分光測色機
光の波長を捉え、分析し、数値化することができる分光測色機を使って影の部分の色を見てみます。

測色機のデータです。影の色が最も何色に近いかを示す相対値を表しています。測色機の示した色は、赤でした。それは、影の色ではなく、赤い光と白い光の波長が現れたものだと考えられます。

それでは、実際の青と緑の光は、測色機ではどう映るのでしょうか。緑のフィルターを投光器にいれて、そのときの色を見てみます。

先ほど分析した影のデータと比較してみます。緑色と比較してみても、青や緑の色はほとんど確認されませんでした。ゲーテが、自然を観察する中で発見し、量子物理学者のハイトラーが実験によって確認した、色彩を帯びた影。それを解くカギは、人間の目の仕組みにあると考えられています。

人間の目の内壁にある網膜。この網膜の中には光を受容する二つの細胞があります。

杆体と呼ばれている細胞は、光の明るさだけを感じています。そして色だけを感じている細胞は、錐体と呼ばれています。色彩を帯びた影は、この錐体が赤を強く感じて、その反対の色である青や緑といった色を、錐体が作り出したと考えられています。この現象は、ニュートンの光学理論では、説明できない問題です。

ベンハムのコマ

ベンハムのコマ
このほかにも、物理的な側面からでは解明されていないものに、ベンハムのコマが挙げられます。1894年に、イギリスで発売されたといわれる、白と黒で模様づけられたコマ。コマを回してみます。すると、白と黒以外に、多くの色が見えてきます。〔注:この現象は、高速で回転するコマの映像を一時停止、もしくは写真撮影しても再現されず、一時停止、あるいは撮影された写真はやはり白と黒だけが見えるのみである。高速で回転するコマの白と黒の模様を肉眼で見たときのみ、白と黒以外に緑と青が見える。動画であっても確認できる。〕しかも、色は回転の速度によって変化するのです。コマの表面に浮かぶ色が見えますか。人間の目を通してだけ見える、いまだに解明されていない科学もあるのです。

ゲーテ博物館に所蔵されていた、ゲーテがプリズム体験をするために作った、白と黒でデザインされたさまざまなカード。このカードを包むための表紙には、ゲーテによって描かれた、色彩論のテーマが隠されていました。虹のアーチがかけられ、その下には、プリズムとルーペが描かれています。そして、絵の中心には、太陽の目、世界の目を意味するといわれる、ゲーテ自身の右目が描かれています。ゲーテは、色の研究は、すべて、人間の目を通して行うべきであると考えたのです。

色彩論の影響

京都
玉村たまむらえいさん
ゲーテの色彩論は、画家や染色家に大きな影響を与えました。伝統に育まれた古都、京都。ここで、染色による色の表現を行っている染色家がいます。京都に工房を持つ染色家、玉村たまむらえいさんです。

玉村さんの作品には、写実的なデザインは、ほとんど見られません。染料による色の表現。色の調和こそが、玉村さんにとっては、一番の関心事なのです。

玉村さんは、まず、2,000色を超える色の中から、主役となる色を選び出します。そして、主役となる色が、より輝いて見えるために、どの色を配色するかを決めていくのです。それは、人間の目が色を求めているからだと玉村さんは考えています。

「黄色が美しいから黄色だけを染めれば美しいとは思わない。何かがあるともっと黄色が映える、という考え方ですから。黄色の無地の着物と、同じ黄色を使った私がグラデーション染めた着物を、それはおそらく100人が100人とも私のほうが美しいと言わはるとは思います。」

色は、配色によって、見ている人々に、未知の感情を呼び覚ますことがあると、玉村さんは言います。

ゲーテも、色について、こういう言葉を残しています。

❝色彩が、我々の周りを取り巻いていますが、もし我々自身の中に光も色彩もないとすれば、我々の目の外のさまざまな色彩も、知覚できないでしょう。❞

関西大学工学部 助教授 倉田純一さん

発赤
関西大学工学部の倉田助教授が研究開発している色彩ロボットは、新たな分野での活躍が期待されています。医学の分野では、じんしんなどでみられるほっせきなどの色を定量化するものはありませんでした。そこで必要になってくるのは、実は、ゲーテの色彩論に繋がる色の考え方でした。

関西大学工学部 助教授 倉田純一さん「ニュートン工学をもとにした計測器だとか測定器といわれるのはいっぱいあります。たとえば塗料を合成するにしても分光器を使ってそれぞれの波長に対してのデータをそろえるというような形で色を合わせていく作業があります。着ている服ですとか、他の工業製品でもそうかもしれませんけども、最終的判断は人間の目にまかされている部分があります。それを判断している人たちはですね、その人の気分で左右されることはおそらく少ないとは思いますけども、自分の経験で、これはいい、これはだめだということをします。そのいい悪いで出てきたもの二つ比べても、実際にはですね、機械で調べると、ほんとに微妙な、わずかな違いしかないものがいっぱいあるんですね。ですからそういうことから考えると、人間の感覚は機械のように数値データ化するにはちょっと難しいかもしれませんけれども、でも人間にしかわからない部分があるかもしれません。それは、ニュートン光学の、あの光ではなくて、人間の感じている知覚という部分の情報をうまく使った、別の色の扱い方が必要じゃないかと思っています。」

量子物理学者 ウォルター・ハイトラー「人間と自然科学的な認識」

20世紀の量子物理学者、ハイトラーは、ニュートン対ゲーテの中に、一枚の図を付けて解説しています。

「ニュートンの光学から始まる研究は、人間の目に見えない紫外線や赤外線などを発見した。これは、ゲーテの色彩論では発見できない、物理学の大きな功績である。しかし、人間の目の作用を重んじたゲーテのいうように、色彩を帯びた影などを無視しては、色というものを全体的にとらえることはできない。

色彩を帯びた影
ニュートン光学とゲーテ色彩論、これら二つの理論を統合するような、新しい次元、新しい学問の構築こそが、これからの科学に求められるであろう」と、ハイトラーは主張しています。

ニュートンの夭折

ウェストミンスター寺院〔Westminster Abbey〕

イギリスの首都ロンドンにある、ウェストミンスター寺院。ここに、ニュートンの遺体は安置されています。20代前半のころに、さまざまな謎を解き明かしたアイザック・ニュートンは、イギリスの科学界の最高峰である王立協会の会長となり、その職を誰にも譲ることなく、1727年3月20日、84年間に及ぶ生涯を閉じました。

ゲーテの夭折

ワイマール〔Weimar〕

ゲーテの遺体は、ドイツ ワイマールに安置されています。41歳から取り組んだ色彩論を、およそ20年かけて完成させ、1832年3月22日、82歳でその生涯を閉じました。ゲーテは死の直前に「もっと光を」と言ったといわれています。ゲーテにとって光とは、自然の命そのものであり、ニュートン光学によって自然の命の神秘性が失われてしまうことに、ゲーテは恐れを抱いたと考えられています。

(ニュートン)

❝色とは、光によって導かれる現象の一つです。光がなければ色は存在できないのです。科学が求めているのは、こうした不変の真理なのです。❞

(ゲーテ)

❝色は自然の中にあります。人間の目を通して景色が見られるとき、そこに色が立ち現れるのです。科学は、人間のため、人間があってこそ存在します。そして科学的な真理とは、自然と人間のあいだにあるのです。❞

二人がもし同じ時代に生きていれば、このように論じたのかもしれません。

物理学者アイザック・ニュートンと、文学者ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。全く異なる立場の二人が研究した色の理論は、それぞれ別の結論を導き出しながら、いまなお、現代色彩学の基礎として重要な意味を持っているのです。(終わり)

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