アインシュタインと科学者たち

量子力学の歴史

プロローグ

ガリレオ・ガリレイや、アイザック・ニュートンなどの、偉大な科学者たちによって築き上げられた、古典物理学。その法則によれば、物質のさまざまな運動や、力のつり合いなどは、現在でも、きちんと説明することができます。ただしそれは、私たちの住む、通常の世界に限って通用する法則なのです。

ニールス・ボーア

そして、私たちが見ることのできない、およそ1ミリの1千万分の1より小さなミクロの世界では、私たちの常識では考えられない、奇妙で不思議な性質を持つことがわかってきました。このミクロの世界を解明するために、これまで多くの科学者たちが、研究と実験を続けてきました。それが、20世紀になって新しく生まれた、量子力学なのです。

コペンハーゲン
デンマーク
コペンハーゲン大学
ニールス・ボーア研究所

デンマークの首都、コペンハーゲン。ここに、量子力学の中枢機関といわれる、ニールス・ボーア研究所があります。1921年の設立以来、量子力学とともに歩んできたこの研究所には、多くの科学者たちが訪れ、いまなお、量子力学の研究が続けられています。そしてこの研究所には、量子力学に関する膨大な数の資料や文献が残されています。

<新たな扉を開いた人々>

――量子力学の世界――

古典物理学から量子力学へ

19世紀の末には、物理学は、すべての現象や実験結果を十分に説明できる、完成した分野と考えられていました。そのため、当時の物理学は、産業と結びついて発展していきました。また同時に、それまでの物理学では説明できない、多くの矛盾も生じていました。この矛盾こそが、新しい物理学誕生のきっかけとなったのです。

新しい物理学の誕生
古典物理学から量子力学へ

19世紀のドイツでは、製鉄業が飛躍的に発展し、溶鉱炉内の鉄がどんな温度で、どんな色の光を放つかの研究が行われていました。しかし、その研究で考えられていた光の波長と、温度の関係式と、実際に計測した値は、一致していませんでした。

量子仮説

マックス・プランク
光のエネルギー

そんななか、ドイツの物理学者、マックス・プランクは、新しい発想を思いつきました。プランクは、光のエネルギーは、1個2個と数えられる小さな塊、粒のようなものと考えたのです。つまり、エネルギーは、連続的に変化するのでなく、不連続な、とびとびの値で変化すると考えました。

量子
quantum(クァンタム)
エネルギー量子仮説に関する論文

そして、この一塊ひとかたまりの単位を、「量子りょうし」と呼びました。これを、エネルギー量子仮説といい、1900年12月に発表されました。しかし、発表した本人であるプランクさえも、この考え方にはうまく馴染めませんでした。エネルギーを、とびとびに不連続なものとする、という考え方は、当時の常識であった古典物理学では、全く考えられないことだったからです。しかし、画期的なこの発想こそが、新しい物理学となる量子力学への幕開けとなったのです。

光量子仮説

光電効果
アルバート・アインシュタイン

その後20世紀に入り、当時謎とされていた、金属の表面に光を当てたときに、電子が飛び出る光電効果という現象を、見事に説明した若者が登場します。相対性理論を発表する3か月前の、若きアインシュタインです。アインシュタインは、プランクのエネルギー量子仮説をもとにした、光量子仮説を発表しました。

光量子仮説に関する論文
光を粒と考える

それまで、波と考えられた光を、エネルギーを持った粒の集まりと考えることにより、光電効果の仕組みを解き明かしたのです。1905年、スイスの特許庁に勤務していたアルバート・アインシュタイン。26歳の時でした。

光の二重スリット実験
干渉縞かんしょうじま

しかし、光は粒であって、波ではないのでしょうか。当時、一つの実験がありました。二つの穴を開けた壁に光を当てると、向こう側に置いたスクリーンに、干渉縞かんしょうじまが現れたのです。

波の干渉実験

干渉縞とは、水面に二つの波を起こしたとき、円状に広がった波と波がぶつかると、干渉して強め合った部分と、打ち消し合った部分が交互に並んでできる、波特有の縞模様です。この結果、光は波の性質を持っていることになるのです。したがってアインシュタインの光量子仮説発表後、光は粒でもあり波でもあるという、不思議な性質を持つことが明らかになったのです。

ラザフォードの原子モデル
アーネスト・ラザフォード

またこの当時、原子の構造について、最も有力な説は、原子核を中心に電子が回っている、ラザフォードの原子モデルでした。

しかし、これをこれまでの理論で説明しようとすると、軌道運動する電子は、光を放ってエネルギーを失い、最終的に原子核にくっついてしまうという欠陥がありました。

ニールス・ボーアとアインシュタイン

原子モデル

ニールス・ボーア
原子に関する論文

そこに、柔軟で自由な発想を持つ、27歳の、若き天才が登場します。コペンハーゲン生まれの物理学者、ニールス・ボーアです。1913年、ボーアは、新しい原子モデルを発表します。

ボーアの原子モデルは、エネルギー量子仮説をもとに、電子はとびとびのエネルギー、つまり、軌道を持つと考えたのです。原子のなかの電子は、決められた軌道を動き、回転運動しているときは光を出さない。そして、電子が一つの軌道から、別の軌道に移るとき、電子は光を放出する。これは、これまでの古典物理学では、全く説明がつかない、大胆な発想でした。

ボーアによる原子模型に関するメモ

しかしこの仮定には、いくつかの疑問も残りました。たとえば回転運動をしているときの電子は、なぜ光を出さないのか。それに対してボーアは、説明しませんでした。いや、説明できなかったのです。ボーアは、従来の古典物理学にとらわれず、事実に従って観測したものはすべて受け入れる、という研究姿勢から、説明しがたいことがあっても事実は事実として受け入れようとしたのです。

このボーアの原子理論のモデルを、アインシュタインはとても高く評価しました。初めてアインシュタインとボーアが会ったとき、この原子論について、お互いに時間を忘れ、夢中で議論を続けました。そして二人とも、生涯量子力学に関わっていくのですが、考え方は同じではありませんでした。アインシュタインは、自然現象は、自然の法則によってただ一つに決まっている。高いところからボールを落とせば、1秒後にどこにあるかが確定できることこそが物理学、と考えていたのです。

理論物理学研究所

その後物理学の発展のために、自由な研究と意見交換ができる場所が必要だと考えていたボーアは、1921年、コペンハーゲンに、念願の理論物理学研究所を設立しました。これが現在のニールス・ボーア研究所です。量子力学は、以後、この研究所を中心に発展していくことになるのです。

ニールス・ボーア研究所
アーカイブス所長
フィン・オースルードさん
1929年

ここは、ニールス・ボーア研究所の1920年に一番最初に建てられた本館です。

1930年

今から入るこの部屋が、大変有名な講堂なのです。
この講堂で、たくさんの会議が行われました。

アインシュタインが
日本へ向かう船上でボーアへ書いた手紙
ボーア!

研究所地下にある資料所倉庫には、過去の貴重な資料が数多く保管されています。この手紙は、アインシュタインが日本へ向かう船のなかから、ノーベル賞を受賞したボーアに対して祝福の言葉を贈ったものです。

親愛なるアインシュタイン教授
ボーアからアインシュタインへの手紙

1922年にアインシュタイン。1923年には、ボーアがノーベル賞を受賞。もちろん、ボーアもすぐにアインシュタインに手紙を書き、お互い祝福し合ったのです。

ボーアとアインシュタイン

このとき、のちにボーアとアインシュタインが、歴史的論争を繰り広げるとは誰にも予想できませんでした。

ド・ブロイ ハイゼンベルク シュレーディンガー

物質波

ルイ・ド・ブロイ
物質波ぶっしつはに関する論文 ルイ・ド・ブロイ

今までの古典物理学で説明できなくても、あるがままの自然の理を受け入れ、原子モデルに疑問を残したボーア。このボーアの仮定に根拠を与えたのが、フランスの物理学者、ルイ・ド・ブロイでした。

物質波 イメージ

1924年、彼は、電子も波であり、それだけでなく、すべての物質は波であると考え、それを、「物質波ぶっしつは」と名付けました。そしてボーアの原子モデルも、電子の波が、原子核の周りを安定して回っているため、光を出さないと説明したのです。

ニールス・ボーア研究所
アーカイブス所長
フィン・オースルードさん
ウェルナー・ハイゼンベルク

ここは、20代の中ごろ、ドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクが住んでいた場所です。
彼は、この研究所でデンマークの学生にデンマーク語で講義をして、量子力学の発展に大きく貢献しました。

ボーアとともに、量子力学とは何かを、1926年にここを去るまで討論していたそうです。

行列力学

1925年、24歳のハイゼンベルクは、ボーアの原子論を計算で説明できる、行列力学を発表しました。これは一部に古典力学を使い、さらに量子条件を使ったりする、複雑で難解な数式でした。そしてハイゼンベルクは、この数式により、ボーアの原子論に、具体的な根拠を与えることになったのです。

波動方程式 波動力学

エルヴィン・シュレーディンガー

もう一人、ボーアの原子モデルの謎を解いた人物が登場します。オーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレーディンガーです。行列力学発表後の翌1926年、ド・ブロイの物質波の考え方をヒントに、物質派の伝わり方が計算できる方程式を発表しました。

波動力学に関する論文

これを、「波動方程式」と呼び、ここに量子力学の基本となる波動力学が完成したのです。後年、このシュレーディンガーの波動方程式と、ハイゼンベルクの行列力学は、数学的に同等である、つまり、全く同じものであることが証明されました。

こうして、さまざまな実験や仮説の発表によって、古典物理学に代わる、量子力学が発展しました。しかし、このミクロの世界の性質には不思議なことが多く、量子力学でも説明し切れない部分があったのです。この量子力学に対して、大きな反論が生まれます。それは、20世紀最大の天才二人の論争へと発展します。ボーアとアインシュタイン。

歴史的論争から量子力学の確立へ

歴史的論争から量子力学の確立へ
ボーア vs アインシュタイン

1920年代の半ば、ボーアの理論物理学研究所には、多くの物理学者たちが訪れるようになりました。とくに、ボーアの理論を支持する若い科学者たちが、この研究所の自由な雰囲気を好み、研究所で生活を共にしていました。

そしてボーア自身も、若い科学者たちの意見に耳を傾け、議論に没頭したのです。なかでもボーアは、当時20代のハイゼンベルクを高く評価していました。

不確定性原理

ウェルナー・ハイゼンベルク
不確定性原理に関する論文

そのハイゼンベルクは、1927年、ある物質の位置と運動量を測定するとき、両者を同時に確定することはできず、どうしても避けられない、不確かさが残るという「不確定性原理」を発表しました。

量子力学
位置は確率でしか表せない

ここに、時速100キロで、北に進んでいる車があります。1時間後、この車はどこにいるでしょうか。私たちが普通に考えれば、それは北に100キロ進んだところです。しかし、量子力学では、速度と位置を同時に決めることができないため、1時間後、どこにいるのかは、確率でしか答えられないのです。

重ね合わせ コペンハーゲン解釈

コペンハーゲン解釈

この考え方は、電子を例にとると、私たちが見ていないとき、電子は波のように広がっていて、ある場所にいる状態と別の場所にいる状態が、同時に在ることです。この状態を、「重ね合わせ」と呼びます。そして、このボーアたちの解釈を、「コペンハーゲン解釈」といいます。

現在のニールス・ボーア研究所でも、ボーアの研究姿勢を引き継いで、若い科学者たちが自由な環境で研究を続けています。

研究員 河本祥一さん

そうですね、ここは…。のんびりしてるんで。研究しやすいとこですね。
その、みんな、いい人たちばっかりで、話しやすい人が多いので。うん。

量子力学の考え方は、物質や自然が、ただ一つの状態に定まらず、確定できないことが、自然の本質である、ということです。ボーアの、すべてを受け入れる研究姿勢から導き出された結論でした。

量子力学をめぐる大論争

第5回 ソルベイ会議
ブリュッセル 1927年

確率でしか表せない、コペンハーゲン解釈に、どうしても納得できなかったのが、アインシュタインでした。1927年、ブリュッセルで行われた、ソルベイ会議。この一流の物理学者たちが集まる国際会議の場で、ボーアとアインシュタインの論争が始まったのです。

アインシュタイン
「神はサイコロ遊びを好まない!」

アインシュタインは、量子力学を認めなかったのではありません。ただ、確率で表す量子力学は、自然現象をすべて表現できないと考えていました。アインシュタインは、自然現象は、自然の法則によって、ただ一つに決まっていると、ずっと信じていたのです。

「神はサイコロ遊びを好まない」。アインシュタインは、何度もこの言葉を口にしつつ、サイコロを振って決められるかのような論理に、どうしても納得がいかなかったのです。

第6回 ソルベイ会議
ブリュッセル 1930年

ソルベイ会議における食事時間は、ボーアとアインシュタイン二人の、論争の場となりました。たとえば朝食の時間に、アインシュタインはボーアに対して量子力学の矛盾を突く理論を示す。するとボーアは、夕食の時間に、朝の異論に対する答えを出す。このようなことを、毎日繰り返したのです。この論争は、次のソルベイ会議では、さらに激しくなりました。

アインシュタインの
思考実験装置の図
ボーア
「もしアインシュタインが
正しければ、物理学はおしまいだ」

アインシュタインが、不確定性原理の矛盾を、さらに巧妙な思考実験で徹底的にボーアに反論したとき、動揺して反論できなかったボーアは、こうまで言ったそうです。もし、「アインシュタインが正しければ、物理学はおしまいだ」。そして、ボーアは夜、反論を思いつかないと、部屋の中で立ち上がっては、「アインシュタイン、アインシュタイン」と、何度もつぶやき、窓の外を見て、考え込んでいたといいます。

ボーアとアインシュタインは、お互いの理論をよく理解し合っていたからこそ、どんなに小さな反論にも必ず耳を傾け、答えを出すことに全精力をかけたのです。このように、二人が寝る間も惜しんで議論に没頭できたのは、ボーアとアインシュタインの量子力学に対する思いがとても強く、深かったからなのです。

シュレーディンガーの猫

エルヴィン・シュレーディンガー

さて、この論争が続くなか、もう一人、量子力学に納得できない人物がいました。それは、波動力学を提唱した、シュレーディンガーです。1935年、シュレーディンガーは、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスを発表しました。これは、放射線の発生と連動して毒ガスが出る装置の箱に猫を入れ、蓋を閉めたとき、1時間後、猫の生死はどうなっているか、ということです。

量子力学では、箱を開ける前の猫は、生きている状態と死んでいる状態が、半分ずつの重ね合わせになっている、と考えます。これに対してシュレーディンガーは、私たちが箱を見る前から、猫の生死はどちらかに決まっているはずで、見る前の猫が、半分死んでいて、半分生きている、などと考える量子力学はおかしい、と反論したのです。

プリンストン高等研究所
米国ニュージャージー州
左 ネーサン・ローゼン
右 ボリス・ポドルスキー

さらに、同じ1935年、アメリカにわたって研究を続けていたアインシュタインは、ボーアたちへの新たな挑戦状として、ポドルスキー、それにローゼンの物理学者と連名で、EPR論文を発表しました。

EPR論文
物理的実在の量子力学的記述は完全と考えられうるか?
アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼン

この論文は、アインシュタインが、量子力学は不完全なものであり、隠れた変数があって、それを見つければ完全になるはずである、と、全身全霊を込めて発表した、極めて強力な論文だったのです。このとき、アインシュタイン56歳。量子力学に対する思いは、全く衰えることはありませんでした。

これに対して、コペンハーゲンにいたボーアは、この論文の発表に衝撃を受けました。ボーアは、すべての研究を投げ出して、量子力学の正当性を訴えるための、反論を考えます。しかし、焦る気持ちからうまく考えがまとまらず、ただ時間だけが流れていきました。数か月後、ボーアは、EPR論文に対しての反論を、やっとの思いで発表しました。

上 EPR論文

下 物理的実在の量子力学的記述は完全と考えられうるか?
ニールス・ボーア

そのタイトルは、アインシュタインたちが発表した論文と、まったく同じでした。しかしそれは、最高のライバル、アインシュタインに対して、完全に間違いを指摘できるものではありませんでした。

果てしなく続くこの二人の論争について、多くの科学者は、もはや物理学の問題ではなく、哲学の問題だと考えるようになりました。しかし、EPR論文が発表されてから30年後、一人の物理学者が、この論争を解き明かす、ある定理を発表したのです。

ベルの不等式

ジョン・スチュアート・ベル
EPR論文

1964年、イギリスの物理学者、ジョン・スチュアート・ベルは、EPR論文の考察から、ベルの不等式を発表しました。ベルはアインシュタインたちの量子力学には隠れた変数がある、という考えを支持し、この不等式が成り立てば、EPR論文は正しいと結論付けたのです。

ここに、長く決着がつかなかった一つの論争に、終止符が打たれるかと思われました。しかしこの時点では、実際の実験で、ベルの定理を実証することは難しく、結論は出なかったのです。

アインシュタインの思考実験装置 模型

それからおよそ20年、急速なテクノロジーの進歩から、頭の中で考える思考実験を、現実の実験として行うことが可能となってきました。1982年、ベルの定理に興味を示していたフランスの物理学者、アラン・アスペは、ベルの定理にもとづいた精密な装置を組み立て、実験に成功しました。

アラン・アスペ

この結果、ベルの不等式は成り立たず、アインシュタインが終生語り続けた隠れた変数は、存在しませんでした。EPR論文が発表されてからおよそ50年、ようやく、量子力学の正当性が証明されたのです。

2重スリット実験

光の二重スリット実験

1989年、日本の外村とのむらあきらは、電子の2重スリットの実験に成功しました。これは、光が波の性質を持つことを実証した、光の2重スリットの実験を、電子で行った実験です。

電子の二重スリット実験
電子の分布映像
(実際の実験結果)

電子1個1個を、二つのスリットに撃ち出すと、電子一個ではただの点ですが、たくさん撃っていくと、奥のスクリーンに、波の性質を示す干渉縞かんしょうじまが現れました。この外村の実験は、電子は波の性質を持ち、重ね合わせの結果であることを実証しました。電子顕微鏡の進歩によって、電子は、粒でもあり、波でもあることを人の目により確認することができたのです。

科学技術の進歩は、過去の偉大な科学者たちを悩ませた、いくつもの疑問や問題を、解決していきました。終生、量子力学に対して真摯に取り組んできたボーアとアインシュタインは、晩年になっても、その情熱は衰えることはありませんでした。

ボーアとアインシュタインにとって、量子力学は決して切り離すことができない、永遠のテーマでした。そしてそれと同様に、二人の関係も、決して切り離すことができない、深いものだったのです。

アインシュタインは、1955年に亡くなるまで、量子力学の確率的な理論を、完全なものと考えられず、何かが欠けているのではないかと問い続け、神がサイコロを振ることを信じませんでした。

いっぽうボーアは、量子力学のさまざまな反論に対して、すべて自分へのものとして受け入れ、可能な限り答えを出そうとしました。そしてボーアは、これまでの論争を決して忘れることなく、1962年に亡くなるその日まで、アインシュタインについて語り続けたのです。

新しい扉を開く量子力学

多くの科学者たちの仮説の発表や、実験での証明によって、量子力学が確立されました。それと同時に、この量子力学を使って、私たちの身の回りに必要な、電子機器などの実用化へ向けての研究も進められ、次々と商品化されています。それでは、量子力学は、私たちの生活のなかで、実際にどのように利用されているのでしょうか。そしてその未来は、どのようなことが起こり得るのでしょうか。

私たちが当たり前に使っている、パソコンや携帯電話。これらの中身は、ほとんどが半導体です。たとえばコンピュータは、電流が流れているかいないかによって、計算を行います。つまり、集積回路である半導体への、電流の流れ方の制御が重要で、ここに量子力学が使われているのです。

絶縁体
半導体
導体

物質には、絶縁体、半導体、導体の三つがあります。絶縁体とは、プラスチックなどの電気を通さないものです。導体は、金属などのように、電気を通すものです。そして半導体とは、条件によって、電気を通したり通さなかったりするものです。

ダイオード
トランジスタ

半導体の部品で代表的なものは、ダイオードです。これは、違う型の二つの半導体を接合して、1方向だけにしか電流が流れない状態にした部品です。トランジスタは、このダイオードに、もう一つ半導体を組み合わせたものです。どちらも半導体の性質を利用して、電子の流れを制御できるようにした部品です。

左 ジョン・バーディーン
中 ウィリアム・ショックレー
右 ウォルター・ブラッテン
世界初のトランジスタ

1947年、アメリカの、ショックレー、ブラッテン、そしてバーディーンの3人によって、トランジスタが発明されました。これは、半導体のゲルマニウムを使ったものです。当時、真空管に代わるトランジスタは、小さく、消費電力も少ない、画期的な発明でした。しかし、ゲルマニウムが熱に弱いことから、この時点では、精密機器の部品としては、問題があったのです。

トンネル効果

日本初のトランジスタ
さき玲於奈れおな

1950年代に、トランジスタは改良を重ねつつ、日本でも生産が始まっていました。当時、企業で半導体の研究をしていた江崎えさき玲於奈れおなは、トランジスタやダイオードに、学生時代から思い描いていた、量子力学のある現象を証明しようとしていました。それが、トンネル効果です。

トンネル効果

トンネル効果とは、たとえば、Aという山の上から、隣のBという高い山へ、玉を転がした場合、普通はエネルギー不足で、Bの山を玉は越えることができません。ところが、量子力学で、物質を波と考えると、エネルギー量を確定することができなくなり、山を越える可能性もあるのです。これが、山にトンネルを掘るような形で、山の向こう側に通り抜けたように見えることから、トンネル効果と呼ばれています。

それは、量子力学の、不確定性原理によって起きる、古典物理学では説明できない現象です。トンネル効果は、1928年、アメリカの物理学者、ジョージ・ガモフが発表しました。

さき玲於奈れおなさん

どうすれば、トンネル効果が見られるかということは、わたしがやったPN接合の、障壁を薄くすれば見られるはずだという、これは、私の頭のなかには、あったわけです。
薄くするためにはですね、PN接合で、非常に、不純物をたくさん入れないと、薄く、実はならない。
そういう、不純物を入れるという技術みたいなものが、ソニーで開発しまして、それで、薄くしたわけ。

エサキダイオード

1957年、江崎は、半導体にトンネル効果が起きることを証明し、それを利用して、トンネルダイオード、別名江崎ダイオードを発表しました。

さき玲於奈れおなさん

エサキダイオードっていうのは、非常に面白い特性が出てきたわけですよね。
その、不整抵抗という特性、つまり、簡単にいいますと、増幅とか発振とかスイッチングができる、いわゆるその、こういうふうなものを、アクティブ、能動的な素質といってるんですが、普通のダイオード、普通の整流器は、これは、パッシブなもので能動的じゃないんです。
普通のダイオードは、その、整流作用は持ってますけど、発振とか増幅できない。
そういう、面白い特性を持つのができた、ということは、私にとってサプライズであったわけです。
で、それは予想しなかったわけです。

左 ウィリアム・ショックレー
右 江崎玲於奈
ノーベル物理学賞授賞式
ストックホルム 1973年

江崎の発表に対して、当初、日本国内の科学者からの反応は、極めて冷たいものでした。しかし、翌1958年、ブリュッセルの国際会議で発表すると、ショックレーに絶賛され、大いに注目を集めました。エサキダイオードの発明で、トランジスタの精度が上がりました。そして、それ以上に、新しい研究と技術の開発に、大いに役立ったのです。これにより、1973年、江崎はノーベル物理学賞を受賞しました。

さき玲於奈れおなさん

量子力学のプリンシプルを使って、いままでの通信、いままでのコンピューターというものを、非常に根本的に変えることができるわけです。
そういう、量子コンピューターとか、量子情報通信。
まあ、量子情報通信っていうのが先に来るだろうと思いますが、これは絶対に盗聴、盗みができない。
これからの世界で大事なことは、安心、安全ということなんですよね。
絶対に盗聴できない通信、そのために、どういう半導体、そのために、半導体…ま、半導体だけじゃなしに、たぶん、ほかの技術も使われるかと(思うけれど)。
半導体もその分野で、私は、かなり大きな役割を演ずるだろう(と思う)。

IC(集積回路)

1958年、アメリカで世界初のIC、集積回路が発明されました。これは、トランジスタやダイオードなどを、一つの半導体の上にすべてまとめたもので、これによって、コンピュータや電子機器の小型化が可能となりました。

LSI(大規模集積回路)

ICは、さらに小さくなり、1970年代にはLSIとなり、目覚ましく発展しました。基本的には、ダイオードが超小型化、複雑化していったのです。それによって私たちのパソコンや携帯電話の機能が、大幅に向上していきました。これらの開発は、すべて量子力学が土台となっているのです。

発光ダイオード

半導体ダイオードは、さらに私たちの生活のなかに入り込んでいます。たとえば、信号機だったり、テレビの電源ランプ、そして、携帯電話のランプなど、さまざまなところで、ダイオードが使われています。

発光ダイオード
西澤潤一

それは発光ダイオードといわれる、電流を流すと発光する半導体です。1960年代に、赤色せきしょく発光ダイオードは開発されていましたが、暗くて実用的ではありませんでした。

しかし、1970年には、西澤潤一にしざわじゅんいちが、新しい製造法を開発して明るい高輝度の赤色発光ダイオードが作られるようになりました。それをきっかけに、1990年代に様々な色の発光ダイオードが開発され、実用化されました。

(財)半導体研究振興会 半導体研究所
研究員 丹野剛紀さん

発光ダイオードの一番の利点は、単色である、一色しか出ないっていうことなんですね。
で、白色光…電球なんか、白色光ですけども、白色光を使ってはいるけれども、最終的には一色しか使わない場合――信号機の赤、青、黄色とか――そういうふうに、一色しか使わない場合には、もとから、一色しか出なくて、しかも効率のいい発光ダイオードを使うっていうのが、とても省エネルギーになるわけです。それが一番の利点です。
あと数年のうちに、白色ダイオードの効率が倍ぐらいになれば、蛍光灯に替わって、家庭内の室内灯がすべて発光ダイオードに置き替わるということになると思います。
で、そうして省エネが進みますと、もちろんその、消費する電力が少ないわけですから、発電所から出るCO2も減って、地球温暖化のスピードを抑えることができるようになると思います。

私たちの生活と切り離すことができない量子力学の世界では、いま、さらに小さな世界の技術、ナノテクノロジーの発展が期待されています。これは、原子一個一個を操作して、自由自在に望む分子を作り上げる技術です。まだまだ発展を続ける量子力学。次はどこへ向かっているのでしょうか。

量子力学の未来

量子光学センター
ニールス・ボーア研究所

現在のニールス・ボーア研究所では、量子情報学という新しい分野の研究も行われています。この分野の研究は、大きく分けて二つ。量子コンピュータと量子暗号です。

ピーター・ショア
物理学 教授
ユージン・ボルジックさん

1994年、アメリカのピーター・ショアは、量子コンピュータが完成したら、現在のコンピュータでは何億年もかかるといわれている、数百桁の因数分解が数分で解けることを、数学的に証明しました。また、これが可能になると、私たちが現在使っているインターネット上の暗証番号などが、簡単に解読できてしまうといいます。これらは、実際に実用化に向けて、現在、どういう状況なのでしょうか。

物理学 教授
ユージン・ボルジックさん

量子暗号に関しては、すでに商品化されているものもあるんです。
ほかには、最もシンプルな量子コンピュータが10年から15年のあいだに作られる可能性があります。
量子メモリーや量子クレジットカードの何らかの単純な仕組みも、10年から15年くらいで完成するのではないでしょうか?
この分野の研究は、始まってまだ10年も経っていません。現在急速に伸びている分野なのです。
そしてこの分野が、多くの喜びや有意義な応用をもたらしてくれることを願っています。

高エネルギー理論物理学(素粒子理論)
教授 ホルガ―・ニールセンさん

ニールス・ボーア研究所の、ニールセン教授です。彼はボーアの理論を受け継ぎ、現在、量子力学の世界より、さらに小さな世界の研究に取り組んでいます。

私は、量子力学の未来はとても明るいと思います。
現在まで真実の理論であると言えると思います。
直感に反することはありますが、実験に支えられて、正しいとされてきたのです。
おそらく偉大な未来が、大きな発展とともに訪れるでしょう。

いま、量子力学は次の新しい扉を開こうとしています。その新しい扉が開かれれば、私たちが予想できない、大きなものを得るのかもしれません。ただ、その扉がいつ開かれるのかは、まだ誰にもわからないのです。

<終(2005年制作)>

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