ケネディ暗殺の真相
イントロダクション
1963年11月22日 P.M.12:30
<アメリカ テキサス州ダラス>1963年11月22日、銃弾は、アメリカの夢を打ち砕いた。大統領、ジョン・F・ケネディ暗殺。
事件直後、リー・ハーヴェイ・オズワルドが、大統領暗殺の犯人として、ダラス警察に拘束される。矢継ぎ早に、事件現場付近から、凶器と思われる銃が発見された。イタリア製ライフル、カルカノ。
オズワルドは、パレードの大統領を後方のビルから狙い、撃った。捜査当局は、そう断定した。捕えられたオズワルドは、しかし犯行をかたくなに否定する。「僕は誰も撃ってない。」
俺ははめられた。誰も撃っちゃあいない。そして事件から2日後。オズワルドもまた、移送中に殺害される。犯人のジャック・ルビーは、監獄に送り込まれた4年後、沈黙を守りぬいたまま、謎の病死。
真相究明のために、後任の大統領ジョンソンが組織したウォーレン委員会は、ケネディ暗殺に関する膨大な報告書をまとめ上げた。世界を震撼させた暗殺事件について導き出された結論は、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行。
暗殺犯 | リー・ハーヴェイ・オズワルド |
凶器 | イタリア製ライフル「カルカノM1891」 5.6秒間に3発の銃弾 |
狙撃場所 | テキサス教科書倉庫ビル 6階 |
だが、報告書が発表された直後から今日まで、疑いの声は囁かれ続けてきた。
ケネディ大統領を撃ったと主張する人物
ケネディを疎ましく思う勢力の存在。マフィアの影。そして私たちは、信じがたい情報を入手した。撃ったのは俺だ、そう主張する男がいる。事件から45年、男は今も生きているらしい。しかも、暗殺について細かく語ったインタビューテープまでもが存在するという。私たちの取材は、そのインタビューを行った、テキサス在住の元新聞記者を訪ねるところから始まった。
ケネディ暗殺については、これまで膨大な書物が書かれ、映画にもなってきた。テキサス州ダラスの事件現場、デイリープラザには、大統領が凶弾に倒れたその場所に、今も目印が刻まれている。
私たちは半信半疑だった。真犯人と名乗る男にインタビューした元新聞記者は、ケネディ暗殺事件の研究者として知られる、ジム・マーズ。政府の公式発表に、疑問を持ち続けてきた人物だ。彼の著書、クロスファイアは、オリバー・ストーンの映画、JFKの原作でもある。マーズもまた、その男の話を直接聞くまでは、眉唾だと思っていたそうだ。
ジム・マーズ「ケネディを撃ったという男のインタビューがこれだ。」
あまりに衝撃的な内容のため、テレビ公開が見送られてきたインタビュー。
ジム・マーズ「男の名はジェームズ・ファイルズ。リラックスしてインタビューに応じてくれた。私の質問にもすべてはっきり答えてくれた。実に細かくケネディ暗殺の状況を語っている。」
インタビューは5年前、場所は、イリノイ州の刑務所。自ら真犯人だと名乗る人物は、警察官殺人未遂の罪で、今でも懲役50年の刑に服しているという。テレビ初公開、ケネディ暗殺の真犯人を名乗る男の驚くべき証言――。
ジェイムズ・E・ファイルズのインタビュー映像
<シカゴ ステートヴィル刑務所 2003年11月19日><ジェイムズ・E・ファイルズのインタビュー>2003年11月19日。シカゴ、ステートヴィル刑務所。VTRの映像は、いきなりその男のインタビューから始まる。
<自称ケネディ大統領暗殺犯 ジェイムズ・E・ファイルズ>ジェイムズ・ファイルズ。自称、ケネディ暗殺の実行犯。年齢、おそらく60代後半、早口だが、その口ぶりは明晰で、迷いは感じられなかった。ファイルズが、事件当日の状況を語り出す。
ジェイムズ・E・ファイルズ「パレードの車がヒューストン通りからエルム通りに入ってきた。車が来ると、私は銃を持ち上げた。そして車をスコープで狙っていた。銃声が聞こえるたびに、ミス、ミス、ミスと数えた。頭を撃つことだけを考えていた。射程距離にフリーウェイの標識があった。」
直前に変更されたコース
<1963年11月22日>その日、ケネディ大統領は妻のジャクリーンとともに、テキサス州ダラスに赴いた。核実験の停止条約に署名し、平和路線を走るケネディにとって、保守的なテキサスは、決して好意的な地盤ではない。だからこそ、何としても押さえておかなければならない票田でもあった。大統領と妻を乗せたリンカーン・コンチネンタルは、当初、ヒューストン通りと交差する、メイン通りを直進する予定だった。だが間際になって、なぜかルートは変更された。ファイルズによれば、あのとき彼を含む3人の狙撃手が、別々の場所からケネディを狙っていたという。ケネディを乗せた車がエルム通りに入ってくると、そこには確かに、高速道路の入り口を示す標識がある。ファイルズが立っていたのは、車と標識を結ぶ線の先、グラシノールの丘と呼ばれる、小高い丘の上。
ファイルズの一発
ジェイムズ・E・ファイルズ「見た限りでは、大統領の頭は撃たれてはいなかった。この時点で車はフリーウェイの後ろに近づいてきた。大統領だけを撃てと言われていた。ジャッキーや他の人物は撃つなと。私が撃てるチャンスは限られていた。撃つかやめるかという判断の中で、私は銃を撃った。一発だけ。それだけだ。」
ファイルズの放った最後の一発が、大統領の頭を撃ち抜いた。あなたは彼の言葉を信じるだろうか。
依頼されたケネディ暗殺 オズワルドは撃っていない
ケネディ暗殺を研究してきたマーズは、ファイルズを相手におよそ3時間のインタビューを行い、信じるに足る証拠を見出したという。
元新聞記者 ジム・マーズ「彼の話は本当だと思った。なぜなら、真犯人しか知りえない事実を、詳細に語っているからだ。」
アメリカ政府が半ば強引に結論付けた、ケネディ暗殺の筋書きを、真犯人と名乗る男が覆す。そんなばかな、と思いつつ、彼のインタビュー全てを翻訳し、細かく目を通さずにはいられなかった。そして私たちは、ジェームズ・ファイルズの言葉に愕然とすることになる。その証言のいくつかを紹介しよう。彼は、ケネディ暗殺をある人物から依頼されたという。
ジェイムズ・E・ファイルズ「彼は必要なときだけお前が撃てと言った。私はバックアップだったんだ。」
そこに浮かび上がるのは、ケネディを憎んでいた者たちの不気味な影。ファイルズは、暗殺犯と断定されたオズワルドとも面識があったという。CIAのスパイ、狂信的保守主義者。いくつもの噂が付きまとう、オズワルドと行動を共にしていたというのだ。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私たちは暗殺の間際まで、ダラスの街を車で走り回っていた。暗殺の朝は、私はオズワルドには会っていない。やつは撃ってはいないよ。」
オズワルドは、単なる手助け役にすぎなかったとファイルズは言う。
リー・ハーヴェイ・オズワルド「誰も撃ってない。自分ははめられた。」
記者「弁護士は付いているか?」
オズワルド「いいえ。」
使われた銃
凶器となった銃についても、ファイルズの証言は意外だった。彼が使ったという銃の名は、レミントン・ファイヤーボール。ダラス警察が凶器として押収した、イタリア製ライフル、カルカノよりもはるかに小型で、機動性に優れた銃だという。
<凶器 イタリア製6.5ミリライフル銃「カルカノM1891」>
ジェイムズ・E・ファイルズ「銃は何を使うかと言われ、ファイアボールがほしいと答えた。短いライフルのような銃だ。銃身はこれくらいで…。当時は時代を先取りした銃だった。レミントン社が製造した銃だ。」
聞きなれない名前だが、その銃は確かに実在した。普通のライフルよりも銃身を短くし、暗殺用に開発されたともいわれる、レミントン社製ファイアボール。狙撃の位置についても、彼は極めて詳細に説明する。
オズワルドがいたとされる教科書倉庫ビルではなく、ケネディの右前方にある、グラシノールの丘。つまりファイルズは、斜め前からケネディを狙ったことになる。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私は引き金を引いた。スコープからは、6フィートほど先に見えた。一瞬、ケネディの頭が前に動いたので弾は右のこめかみに当たった。ちょうど目の後ろだった。」
ファイルズの証言は、あらゆる点で事件の公式報告書と食い違っている。だが、荒唐無稽なたわごとと片づけるには、あまりにも具体的だった。衝撃のケネディ暗殺から45年、20世紀最大の謎とまでいわれたあの事件に、いま新たな光が当たる。誰がケネディ大統領を撃ったのか、そして、背後にはどんな陰謀が潜んでいたのか。
ファイルズへの取材申し込み
自らをケネディ暗殺の真犯人だと名乗る男、ジェイムズ・ファイルズ。インタビューでは、本名をジェームズ・サットン(James Sutton)というらしい。アメリカの空挺部隊に所属していたとも語っている。だが、アメリカ空軍の記録をいくら調査しても、その名前は見当たらなかった。謎めいた男の過去を明らかにするすべはない。本人の言葉によれば、かつて、マフィアなどの依頼も受けて、人を手にかける、プロの殺し屋として働いていたというのだが。それにしても、いったいなぜファイルズは、このようなインタビューに応じたのか。わたしたちは、イリノイ州の刑務所で服役している、ファイルズ本人に取材を申し入れた。もう一度、私たちのカメラに、全ての真相を語ってほしい。
ファイルズの証言
いっぽうで、インタビューに残されたファイルズの言葉の検証を重ねた。逮捕されたオズワルドは、銃を撃っていない。ファイルズは、そう断言する。公式報告書は、ケネディ暗殺をリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付けている。凶器は、イタリア製ライフル。パレードを見下ろす教科書倉庫ビル6階の窓から、続けざまに3発。<5.6秒間に3発の銃弾>だがファイルズは、それを完ぺきに否定した。「オズワルドは撃っていない。」
根拠の一つは、かつてファイルズが目にしたというダラス市警察の報告書にあった。事件直後、身柄を拘束されたオズワルドは、硝煙反応のチェックを受けている。銃を撃つと、飛び散った火薬が皮膚などに付着する。その痕跡を見極めるのが、硝煙反応のチェック。報告書には、硝煙反応が出たのは左右の掌だけで、顔からは検出されなかったとある。
ジェイムズ・E・ファイルズ「銃を撃ったことのある人間なら、38口径のリボルバーで撃ったって、手首まで火薬が飛ぶことを知ってるさ。」
ライフルを撃っていたら、反応が掌だけということはあり得ないと、ファイルズは主張する。そして根拠はもう一つ。事件直前、ファイルズは、オズワルドと行動を共にしていたという。二人は、ヒットマン、殺し屋として、CIAやマフィアの仕事を請け負っていた。ファイルズは、以前にもオズワルドと組んだことがあったというのだ。
ジェイムズ・E・ファイルズ「よく覚えてはいないが、確か、暗殺の1週間前には現場に入ったと思う。ダラスだ。数日前から、私はダラスにいた。」
<暗殺5日前 ダラス>ファイルズの記憶によれば、暗殺の5日前にオズワルドがファイルズのもとを訪ねてきたという。オズワルドの合流は、ファイルズ自身も聞かされていなかったそうだ。オズワルドは、当時、教科書倉庫ビルに勤めており、ダラス市内に土地勘があった。
ジェイムズ・E・ファイルズ「ドアを開けると、オズワルドがいた。私は驚いたよ。依頼人以外、私の居場所を知らないと思っていたからね。何しに来たんだ、と尋ねた。するとやつは、手伝うように言われたと答えたんだ。私とオズワルドは暗殺の直前までダラスを走り回った。あちこちの通りを走って、車の流れや、渋滞の様子、行き止まりや、工事中の場所などを確認した。ほかにも、信号のタイミングや、細かな状況を頭に叩き込んだんだ。」
オズワルドは、自分の案内役にすぎなかった。ファイルズは、そう主張する。
ジェイムズ・E・ファイルズ「あるとき私たちは、町はずれの空き地に出かけた。」
銃の調整をする必要があったファイルズは、ダラス郊外の廃品工場に向かった。
ジェイムズ・E・ファイルズ「あれは廃品置き場の隣だった。誰にも邪魔されない場所さ。試し撃ちしたときに出た薬莢を、やつが拾ったんだ。掌だけに硝煙反応が出たのは、そのためだ。」
オズワルドの単独犯行説には、当初から懐疑的な意見も多かった。自分こそが真犯人だと主張するファイルズの指摘は、その点について、筋が通っているように思える。
ファイルズの信憑性
その素性さえ確認できない男、ジェームズ・ファイルズ。彼の言葉を、どこまで信用したらいいのか。私たちは、インタビューの映像を精神科の専門医に持ち込んだ。もしもファイルズが嘘を口にしていたとしたら、表情には特有の反応が見て取れるかもしれない。
訪ねたのはアメリカの精神医学の権威、ロス博士。<精神医学研究所 所長 コーリン・ロス博士>繰り返し、ファイルズの言葉に耳を傾け、表情の変化に目を凝らした。証言は、博士にとっても、度肝を抜かれるような内容だったに違いない。限られた映像からの判断だが、と前置きして、博士は所見を述べてくれた。
コーリン・ロス博士「注意深く見ると、とても落ち着いて喋っています。汗もかいていないし、嘘をついている感じではありませんね。少なくとも私には、彼が狙撃犯だったのではないかと思えます。」
断言こそ避けたものの、精神科の専門医から見ても、ファイルズの言葉は、真実である可能性が高いという。
ファイルズの4発の銃弾の証言
さらにファイルズは言う。銃弾は3発ではなかったと。ウォーレン委員会の報告書では、オズワルドが放った銃弾は3発。うち2発が、大統領に命中したと結論付けている。その瞬間の映像を確かめると、はじめ大統領は、両手を首のあたりに当てている。これが、首を貫いた1発目。次の銃弾は、車からそれて道路に跳ね返り、前方に立っていた見物人に当たった。勢いを削がれた銃弾は、その男性の顔を傷つけている。これが、本人の証言とともに報告書に記された、2発目である。続く3発目が致命傷になったと報告書は書いている。しかし――。
ジェイムズ・E・ファイルズ「あのとき、大統領の車は、ヒューストン通りから曲がって、エルム通りに入ってきた。そこで私は銃を構えた。向かってくるケネディの車を、スコープに捉えながら待ち続けたんだ。銃声が聞こえるたびに、ミス、ミス、ミスと数えた。」
ファイルズは、別の狙撃手が放った銃声を3発確認したという。そして――。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私のチャンスは限られていた。撃つか、銃をしまうか。で、私は引き金を引いた。1発だ。」
銃声の録音の存在
ファイルズが口にしたことが真実なら、銃弾は合わせて4発放たれたことになる。それを確かめるすべはないものか。しかし、VTRが普及していなかった時代、映像はほとんど8ミリフィルムなどで残された。音声を記録した映像は、残念ながら存在しない。けれど、落胆した私たちのもとに朗報が届いた。事件当時の音声を記録した、唯一の録音テープがあるという。
持ち主は、アメリカ政府機関の研究所に勤めている人物だった。ドナルド・トーマス博士。かつて彼自身が、ケネディ暗殺の録音テープを解析していた。博士が取り出した1枚のCDには、事件現場の銃声さえも記録されているという。現場の音声は、偶然に残されたものだった。パレードの護衛を務めたバイクの護衛官たちは、あのとき無線で交信していた。それが、たまたま録音されたらしい。音を拾ったバイクは、ケネディの車の左後方。バイクに搭載された無線のマイクは、不鮮明ながら、大統領が狙撃される前後の音を記録していたのだ。このときの音声は、のちにケネディ暗殺を調査したアメリカ下院委員会で発表されたものだった。当時トーマス博士は、調査員として音声の解析に携わった。原版のテープは現在、アメリカの国立公文書館に保管され、持ち出しは許可されていない。
ドナルド・トーマス博士「これには、およそ20秒間の音声が記録されています。全体の一部分ですが、明らかに銃声と思われる音が聞き取れます。」
ファイルズが正しければ、4発の銃声が聞こえるはずだ。ケネディが凶弾に倒れたときの音。耳を澄ませて聞いていただきたい。<(註:音声の再生、鮮明に聞こえず、銃声ははっきりと聞き取れない。)>
ドナルド・トーマス博士「まず最初に、『調べに行く』という声が聞こえます。その2秒後に、銃声が4回入っているんです。」
もう一度、音声の波形を見ながらその音を聞いてみよう。(註:音声の再生。)残念ながら、私たちに銃声を識別することはできなかった。だが、音の専門家であるトーマス博士には、4発の銃声が聞こえるという。私たちは、この音を日本に持ち帰り、改めて解析を試みることにした。
銃声の録音の解析
<東京都渋谷区 日本音響研究所>協力を仰いだのは、日本音響研究所。そこは、フィリピンのアキノ大統領暗殺事件を音声解析によって解決に導いた、鈴木松美氏の仕事場だ。雑音だらけの不明瞭な音声から、ノイズを取り除き、波形や音の成分を丁寧に分析していく。そこには、何発の銃声が記録されているのだろうか。もしも、トーマス博士がいうように、4発ならばファイルズの弾は俄然、真実味を増すことになる。
日本音響研究所 鈴木松美氏「まずですね、確認できた銃声は、1、2、3…4発です。」
その言葉に、背筋が凍りついた。私たちは絶句していた。やはり4発。鈴木氏の分析では、雑音を整理した音声の波形が、動かぬ事実を物語っているという。
日本音響研究所 鈴木松美氏「1…2…3…4つあります。で、なんでこれわかるかといいますと、…ここを見ると明らかに…ここはあまりノイズがないとこに明らかに、銃声が一発あります。次にここがあります。やはりここも違います。次、これです。これも他とは違う。次にここです。これ、4発目です。…あきらかに、ここのノイズが抜けてますけども、銃声だけはこういうふうに、ここはありますね、こういうふうに。」
確かに、他の雑音とは異なる波形が4か所。彼はこれを銃声と断定した。では改めて、無線録音に耳を傾けてみよう。点線部分は、銃声が上がった瞬間。そして、画面上の数字は、銃声の順番を示している。(註:2回再生される。破裂音は4発聞こえる。)
2発目と3発目はやや不明瞭だが、確かに合わせて4つの銃声が聞き取れる。ファイルズの言った通り、あのとき銃弾は4発発射されていたのか。オズワルド一人が、3発の銃弾を放ったとする公式報告書は、やはりねつ造だったのだろうか。音響研究所の分析はさらに続いた。そして私たちは、唯一の録音記録に潜む、新たな手掛かりを知ることになる。だがその前に、時計の針をあの日に戻そう。
銃声の証言
ケネディ暗殺事件は、無数の目撃者がいた。ダラス遊説の模様は、複数のカメラによって8ミリフィルムなどに収められている。無論、公式報告書が作成される過程で、全てのフィルムがチェックされた。しかし何一つ、新事実の発見には、結びつかなかったとされている。現場に居合わせた住民たちにも、くまなく聞き取り調査が行われたが、証言の多くが握りつぶされたという話も多い。ファイルズが真犯人かどうかを見極めるために、私たちは、このフィルムをもう一度丹念に見直すことにした。
数あるフィルムの中でも、とりわけ有名なフィルムは、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した一本だ。ザプルーダーは、パレードを見下ろすグラシノールの丘から、暗殺の瞬間を捉えている。ファイルズの言葉が正しいとするなら、銃を構えたファイルズは、ザプルーダーの後方にいたことになる。ザプルーダーのフィルムは、これまで幾度もメディアに登場してきた。だがそこに、私たちは奇妙な動きを見つけてしまった。それは、暗殺の決定的瞬間から、さかのぼること数秒前。
車の向こう、赤いスカートの少女が走っている。スローモーションでもう一度。よく見ると、途中で立ち止まっていることがわかる。なぜ少女が突然立ち止まったのか。ひょっとするとそれは、銃声を耳にしたからではないか。私たちは、過去の記録を徹底的に調べ上げ、少女を探し出すことに成功した。45年前、10歳だった少女は、これまでほとんどマスコミの前に姿を見せたことはない。
ローズメリー・ウィルス。当時10歳。1963年11月22日。ローズメリーは、家族とともに、大統領のパレードを見物に出かけたという。
ローズメリー・ウィルス「両親と姉、それから祖父母も一緒でした。ちょうどこの辺りで、大統領の車が来るのを待っていたんです。」
ローズメリーは、ヒューストン通りの角でケネディの車を待ち受け、そのまま車を追いかけて走って行った。やがて車は、エルム通りへと左折する。すっかり興奮していた彼女は、なおも車を追いかけ、エルム通りへと走り込んでいった。別のカメラで記録した映像の模様には、一瞬だが、角を曲がる赤いスカートのローズメリーが映っている。彼女、ローズメリーは、事件直後、捜査当局に何度か同じ話を聞かれ、そのたびに同じように答えてきたという。しかし、証言が取り上げられることはついになかった。のちに、ケネディ暗殺の真相を探ろうとする一部のメディアだけが、彼女の発言にスポットライトを当てている。そして問題の瞬間。彼女はなぜ突然、走るのをやめたのか。ローズメリーは、当時と同じ場所で足を止め、私たちは彼女の言葉に息をのんだ。
ローズメリー・ウィルス「私はここを走っていたの。そしたら聞こえたの。銃の音だった。一発目の銃声が聞こえたんです。」
やはり彼女は、銃声に驚いて立ち止まっていた。最初の銃声は、走る彼女の背後から聞こえたという。
ローズメリー・ウィルス「えーっと…こんなふうだった。(註:手を叩いてタイミングを表現する。タン、タタン、…タン。)こだましているみたいだった。最初の銃声があって、続いて、パンパンと2発。そう、こだましているみたい。そのあと少し時間があいて…次にまた一発。」
彼女もまた、4発の銃声を聞いていたのだ。音のタイミングは、あの音声記録と全く同じだった。音声分析と、目撃者の証言によって、ジェームズ・ファイルズの告白は、いよいよ信憑性を増してきた。
3人の実行犯
さらにファイルズは、実行犯は一人ではなかったと主張する。
ジェイムズ・E・ファイルズ「ある晩、シカゴのある店で私はピンボールを楽しんでいた。そこに、チャールズ・ニコレッティがやってきたんだ。私は彼と、何度も仕事をしてきた。」
<シカゴのマフィアで一番の殺し屋 チャールズ・ニコレッティ>チャールズ・ニコレッティは、シカゴマフィアの中で、最も恐れられた殺し屋である。ファイルズによれば、それは、ケネディ暗殺の3か月前。
<1963年 夏 シカゴ>
「やあジミー、久しぶりだな。ピンボールなんて、ガキみてぇだな。…仕事の話だ。」
「ちょっと、終わるまで待ってくれよ。」
「大事な話だ。」
「いまピンボールやってるから、待ってくれないか。」
ジェイムズ・E・ファイルズ「私はピンボールに夢中だった。でもニコレッティは、そんなのお構いなしだった。大事な話だから、表へ出ろっていうんだ。」
ニコレッティは、自分の車にファイルズを押し込み、仕事の話を始めたという。ファイルズいわく、これが暗殺を請け負った背景だった。
ジェイムズ・E・ファイルズ「ニコレッティは、お前の友達を殺すことになったと言ったんだ。どういう意味か分からなかった。でも、友達ってのは、ケネディのことだったんだ。私は驚いて聞き直したよ。すると、ケネディをやるって言うんだ。確かに私は、ケネディなんてやつは、死んでも構わないと思っていた。いいだろう、やろうって答えたよ。」
ファイルズにとって、なぜケネディは死んでも構わない人物だったのか。そこには理由がある。若き大統領となったケネディは、当時最大の反対勢力だった旧ソビエト連邦に接近し、和平路線を推し進めていた。軍縮への道を選んだ大統領は、アメリカの軍需産業から睨まれ、そこに、そこにマフィアやCIAが絡んでいたといわれている。国民に支持されたケネディだが、敵も多かったのだ。
ファイルズは言う。狙撃者は、自分とニコレッティ。そしてもう一人。合わせて3人が、ケネディを狙うことになったと。こうして暗殺の準備は整っていったらしい。
ジェイムズ・E・ファイルズ「暗殺に加わったのは私とチャールズ・ニコレッティ。それにおそらく、ジョニー・ロゼリだ。ニコレッティが引き金を引くのを見たわけじゃない。でも、間違いないだろう。」
ジョニー・ロゼリもまた、シカゴマフィアの一員だった。そして、狙撃犯が複数いたというファイルズの話を裏付けたのは、またしても、鈴木氏(註:日本音響研究所)の音声分析だった。彼は、4発の銃声が、少なくとも2丁以上の異なった銃から発せられていることを突き止めていた。
異なる銃声
日本音響研究所 鈴木松美氏「1発目の銃と、4発目の銃というのは違う。」
2発目と3発目は不明瞭で分析は困難だったが、1発目と4発目は細部の分析ができたという。鈴木氏は、1発目と4発目の周波数を、色に置き換えて比較してくれた。
日本音響研究所 鈴木松美氏「これが1発目の銃声です。これは4発目の銃声です。で、1発目の銃声ってのはもう、ここで、すぐあと、消えてしまう。…こちらはずっと尾を引いて、こういうふうな3角形。しかもこの、ここがこういうふうに尾を引いて、ここに特徴があります。こっちにありません、おんなじ特徴というのは。これも大きな違いなんですけども、ここにこういう特徴っていうのが出てるんですがここには出てません。したがってこの銃とこの銃と、完全に別の銃だと思っていいと思います。これは銃口から、それから火薬の量とか、それから形ですね。それによって決まるものですから。ですから、これとこれは、明らかに、この特徴というのは合いません。合わないということは違う銃です。」
私たちの目の前で、まるでパズルのピースがひとつひとつはまっていくように、ファイルズの証言が証明されていった。
ケネディ暗殺の背景
若き大統領。ジョン・F・ケネディは、若者や、虐げられてきた黒人層にとって、希望の星だった。そして、ケネディ家とマフィアの因縁が深いことは、当時まだ多くは知られていなかった。
<ケネディ大統領の父 ジョセフ・P・ケネディ 禁酒法時代、酒の密売に関わり、マフィアと関係を持つ。>アイルランド系移民の父、ジョセフ・ケネディは、禁酒法をかいくぐる酒の密売によって、マフィアとの結びつきを深めた人物だ。政治家となったのちも、マフィアとの癒着を利用し、持ちつ持たれつの関係を重ねた。息子ジョンが大統領選に打って出たとき、父親は背後で、マフィアとのコネクションを最大限に利用したといわれている。そしてケネディは、見事、大統領の座を手に入れた。だが、若き大統領は、マフィアとの関係を一掃しようと、犯罪撲滅に取り組み始める。父親、ジョセフの意向を受けて、ケネディの選挙運動を支えていたシカゴマフィアにとって、それは、許し難い裏切りだった。当時、シカゴマフィアの頂点にいたのは、サム・ジアンカーナである。
ファイルズが口にしたチャールズ・ニコレッティやジョニー・ロゼリは、ジアンカーナの手下だった。ケネディへの報復を狙うマフィアと、大統領の平和路線を憎々しく見ていたCIAや軍需産業、そんな背景のもとで、暗殺事件は起きている。
ファイアボールの銃声の検証
ファイルズによれば、銃はカルカノではない。事件直後に押収され、ケネディ暗殺の凶器と断定されたイタリア製6.5ミリライフル、カルカノ。公式報告書では、オズワルドは、6秒足らずの間に3発撃ったことになっている。一昨年、日本テレビが放送した番組でも、この点を検証していた。
<――報告書通りカルカノで、わずか6秒の間に3発撃てるのか。はたして成功するのか。><6秒で正確に3発を撃ち抜くことは不可能>
たとえ射撃の名手でも、6秒足らずで3発の銃弾を発射するのは困難だった。ファイルズ自身は、たった1発しか撃っていないという。では、どのような銃を使ったというのだろう。
ジェイムズ・E・ファイルズ「レミントン・ファイアボールだ。ファイアボールは、銃身を短くした小型のライフルさ。当時としては最先端だった。レミントン社が造ったやつの、初期のモデルだよ。」
レミントン・ファイアボール。初めて耳にする名前だった。はたしてそんな銃が実在するのか。私たちは、製造元だというレミントン社に問い合わせた。レミントン社は、ファイアボールが自社の製品であることを認めた。だがすでに生産は中止。取材を申し込んだが、拒絶されてしまった。
<アメリカ テキサス州ヒューストン>そこで私たちは、アメリカのガンコレクターと連絡を取り、ファイアボールを持っている人物を見つけ出した。ガンマニア、レイ・ライドル。彼が所有していたのは、初期型からモデルチェンジしたタイプだった。しかし形状は、初期型とほとんど変わらないという。レミントン・ファイアボール、XP100。全長30センチながら、遠い標的も狙えるよう、スコープがついている。
レイ・ライドル「たしか、1962年から生産されたはずだ。狩猟用だと思う。弾は小さくて、一発ずつしか入らない。こうやって装填するんだ。200ヤードくらいは狙えるね。」
200ヤードといえば、およそ180メートル。その特徴は、撃ったとき、銃口から、炎と煙が大きく飛び出すことだという。同じ銃なら、銃声の周波数も似ているはずだ。私たちは、レミントン・ファイアボールの銃声を収録し、鈴木松美氏のもとに持ち込んだ。暗殺現場の銃声と比較すれば、何かわかるかもしれない。そして音声分析の結果、驚くべき事実が明らかになった。
注目したのは4発目。なんと4発目の銃声とファイアボールの銃声が、きわめて似ていると指摘した。
日本音響研究所 鈴木松美氏「まず、非常に近かったと思います。これ見ますと、こういうふうな、三角形が、こういうふうにあります。これは、拳銃の音だというまず証明になります。次にですね、こういうふうな、この、こういうところのこれですね、ここにありますこれが、ここにあります。したがってこの拳銃とこの拳銃は、同じ種類、すなわちレミントン・ファイアボール。こちらがですね。レミントン・ファイアボールで撃ったのが非常に、怪しい。ま、この拳銃が、ほぼ使われたのではなかろうかという証明になります。」
はたしてこれを、偶然の一致ということができるだろうか。ちなみに、カルカノの銃声は、暗殺現場で録音されたどの音とも、大きく食い違っていた。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私のチャンスは限られていた。撃つか、銃をしまうか。で、私は引き金を引いた。一発だ、ただの一発だ。」
45年前、ケネディ大統領に致命傷を与えたのは、やはり、ジェイムズ・ファイルズだったのだろうか。
グラシノールの丘から上がった煙の証言
10歳で暗殺現場を目撃した、あのローズメリーが、興味深いことを口にしていた。彼女は、ケネディの右前方の丘から、炎と煙が上がるのを見たというのだ。それは、ファイアボールの硝煙か。
「あの丘の角あたりだったと思うけど、変な煙と炎が立ち上ったのを私は見たわ。煙を見て、それからケネディの頭が、砕け散る瞬間を見たの。」
この証言も、当時は黙殺されてしまったという。ローズメリーが炎と煙を見たのは、グラシノールの丘と呼ばれる、小高い丘の上だった。では、ファイルズ自身は、狙撃場所についてどのように語っているのだろう。公式報告書は、狙撃場所をテキサス教科書倉庫ビル6階と断定している。その根拠は、同じ場所から発見されたライフル、カルカノの存在だ。だがファイルズは、グラシノールの丘から撃ったと言っている。
ジェイムズ・E・ファイルズ「ベストポジションが、グラシノールの丘の上だった。あそこの塀の後ろだ。」
迷い、戸惑いもなく口にした、グラシノールの丘。そこは、ヒューストン通りからエルム通りに入ってきたケネディを、右前方から狙える場所だった。公式報告書は、背後から銃弾がケネディを撃ったとしているが、ファイルズの銃弾は、ケネディの斜め前から放たれたことになる。そしてファイルズは断言した。致命傷となったのは、大統領の頭を砕いた、自分の銃弾に間違いないと。かつて、警視庁の特殊部隊、SATに所属していた伊藤鋼一氏は、暗殺の瞬間をとらえたフィルムを繰り返し見たうえで、次のように語った。ケネディを撃ち抜いた銃弾は、2発ある。
元特殊部隊隊員SAT所属 伊藤鋼一「映像ではおそらく一発が、ケネディ大統領の後ろから首に入ったんだと思います。致命傷になっているのは、この方向から狙撃されている銃だと思うんですよね。」
実戦経験を持つ彼もまた、致命傷を与えたのは、グラシノールの丘から放たれた銃弾だろうと推測する。その距離、およそ30メートル。レミントン・ファイアボールなら、狙い撃ちは難しくない。ならば、事件前後の様子を撮影したフィルムや写真のなかに、グラシノールの丘に立つファイルズの姿が映ってはいないか。ファイルズへのインタビューを行ったジム・マーズは、一枚の写真を彼の前に差し出していた。
ケネディ暗殺事件の研究者(元新聞記者) ジム・マーズ「これがあなたの後ろ姿ではないですか。」
ジェイムズ・E・ファイルズ「私かもしれない。」
ジム・マーズ「後ろ向きに歩いてますね。」
ファイルズ「ああ。そうだね。」
私たちは、同じ写真を入手することができた。ケネディを撃った真犯人、そう名乗るジェイムズ・ファイルズが現場から立ち去る後ろ姿。やはり彼こそが、ケネディ暗殺の実行犯なのか。
ファイルズが現場にいた物的証拠
その情報は、深い霧を晴らすように、私たちにもたらされた。ケネディ暗殺事件の研究者、ジム・マーズが、ファイルズが実行犯であることを物語る、物的証拠の存在を教えてくれたのだ。カメラの前で書いてみせたのは、銃の薬きょうだった。それは、かつてマーズのもとに持ち込まれたものだ。
ジム・マーズ「これには、先端にマークのような傷がついていたんだ。」
傷ついた薬きょうを持ち込んだのは、ダラスに暮らす住民の一人だった。マーズは意味が解らなかったという。
ジム・マーズ「彼に尋ねたんだ。この傷はいったいどういうことなんだろうねって。彼も、その意味は解らなかった。」
住民が薬きょうを発見したのは1988年、あの、グラシノールの丘だった。ケネディ暗殺に関わるものではないか。そう考えて、マーズを訪ねてきたらしい。念のためにマーズは、薬きょうを預かり、傷跡の鑑定を試みた。その結果、傷跡は、人間の歯型であることが判明した。
ジム・マーズ「傷跡は人間の歯型だと、専門家から知らされた。そして私は、あれこそまさしく、ファイルズが犯人であることを裏付ける、物的証拠だったと気づいたんだ。」
マーズがファイルズにインタビューしたとき、ファイルズはこんなことを語っている。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私は地面に落ちた薬きょうを拾って口に入れ、火薬の味を確かめた。火薬の味が大好きだった。私は薬きょうを手に取り、噛んでからそれをしばらく眺めていた。フェンスの上に置いた薬きょうには、私の歯型がついていた。薬きょうをそこに残したまま、現場から立ち去ったんだ。若気の至りかもしれない。自分の行いは正しいと信じていたんだ。」
ファイルズが、自ら狙撃現場に残した薬きょう。時はめぐり、グラシノールの丘に埋もれていた薬きょうが発見され、JFK暗殺の真相を究明する元新聞記者マーズのもとに持ち込まれた。のちにファイルズにインタビューするまでマーズは、薬きょうのことなど、どこにも発表してはいなかった。そしてマーズは、ファイルがケネディを撃ったことを確信したのだ。拾い主のもとに返された薬きょうは、今も現存するという。
歯形の残る薬きょうを追って
<オランダ アムステルダム>ケネディを撃った直後、歯形を残した薬きょうを現場に残してきたと証言したジェイムズ・ファイルズ。その薬きょうが見つかったのは、その25年後のことだった。行方を追って実物を確かめるために、私たちは、オランダへ飛んだ。歯形が残る薬きょう。それがもし、レミントン・ファイアボールの薬きょうと同じものなら、ファイルズの言葉は限りなく正しかったことになる。
情報によれば、薬きょうはこの家に住む人物が、拾い主から買い取ったらしい。胸は高鳴っていた。薬きょうの持ち主は、快く取材に応じてくれた。十数年前から、ケネディ暗殺に興味を持ち、独自に調査を重ねているという。ウィム・ダンクバー。
アメリカから遠く離れたヨーロッパでも、世紀の暗殺事件は、謎に満ちたミステリーとして語り継がれているらしい。ダンクバーは、問題の薬きょうを取り出した。これが45年前、ケネディ大統領を撃ち抜いた銃弾の名残なのだろうか。1988年、暗殺現場付近で発見されたという、古びた薬きょう。
ウィム・ダンクバー「私は、薬きょうを見つけた人物から、これを譲り受けました。ケネディ暗殺の現場近く、グラシノールの丘で発見されたものです。狙撃犯が残したものに、間違いないでしょう。」
時を経て、金属の色が変色していた。先端には確かに、押しつぶされたような傷がついている。私たちは、取材のときに入手した、レミントン・ファイアボールの薬きょうと比較してみた。口径は同じだが、明らかに長さが違う。しかしダンクバーは、驚きもせずにこう言った。
ウィム・ダンクバー「歯形がついた薬きょうは、ファイアボールの初期型モデルのものです。同じ22口径でも、量産モデルは火薬を少し押さえている。だから、サイズが違うんです。」
ファイルズが使用したファイアボールは、初期型モデルだった。のちの量産モデルは、安全性を考慮して、火薬の量が減らされたのだという。ファイルズの声が、不気味にこだました。
ジェイムズ・E・ファイルズ「私は薬きょうを手に取り、噛んでからそれをしばらく眺めていた。」
はたしてこれが、ケネディ大統領を狙撃し、歴史を大きく動かした銃弾の薬きょうなのだろうか。
ケネディ暗殺の真相
45年前、ケネディ大統領を撃ったのは俺だ。そう主張する男。ジェイムズ・ファイルズ。
<1963年11月22日>それでは、ケネディ暗殺の一部始終をジェイムズ・ファイルズの言葉に従って再現しよう。ジェイムズ・E・ファイルズ「私はファイアボールを入れたバッグを持って、狙撃場所に向かった。グラシノールの丘のフェンスの手前だ。彼らがやってくる数分前だった。私はスコープを取り出して、フェンス越しに周囲をチェックした。警備員や、警察官たちがどこにいるか確かめたんだ。銃を見られたらまずいから、ぎりぎりまでバッグにしまっておいた。安全を確認したうえで、フェンスから少し離れ、しばらく様子を見ていたんだ。やがて車が近づいてくるのがわかった。そこから準備開始だ。バッグを開けて、ファイアボールを取り出した。パレードの車は、ヒューストン通りからエルム通りに曲がって来た。だんだん、目の前に近づいてくる。私は銃を構えた。手前にフリーウェイの標識があった。まだ大統領は撃たれてはいなかった。その直後に、大統領の身体がよろめいた。ここだと思った。撃つか、やめるか。そして、私は引き金を引いた――。」≪終≫