ジョン・F・ケネディ大統領物語

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ケネディ家 野望と権力の系譜 第3章 ~我らすべて死すべき運命~

プロローグ

ジョン・F・ケネディ「祖国が、あなたのために何をなすかではなく、あなたが、祖国のために何をなすかです。」

〔制作 テムズTV(英)、WGBH(米) 1992年〕

〔ケネディ家・野望と権力の系譜(原題:THE Kennedys)〕“第3回 我らすべて死すべき運命”

ファーストファミリー

1961年、1月。ジョン・F・ケネディは大統領に就任し、アメリカに新しいファーストファミリーが誕生した。一家が醸し出す華やかな雰囲気は、国民を魅了した。

ケネディの伝記作家 ドリス・カーンズ「ジョンもジャクリーヌも、強烈な自意識の持ち主でした。二人は人前で、スマートなカップルを演じることに心を砕きました。仲睦まじい二人の姿には、演技の部分も含まれていたんです。ジャクリーヌは時折、甘えるようなしぐさでジョンに話しかけました。それはたいてい、夫がほかの女に気を取られているときでした。でも彼女はだんだん、くよくよしなくなりました。ジョンとは別に、1人のファーストレディーとして生き始めたのです。」

アナウンサー「このイースト・ルームは由緒ある部屋だとか?」

ジャクリーヌ・ケネディ「ええ。ピアノはF・D・ルーズベルトの愛用品。カザルスが演奏に訪れたこともあり、シェークスピア劇の上演も行われました。」

(当時)ジョンソン副大統領補佐 ジョージ・リーディ「ジャクリーヌはホワイトハウスの内装を一新し、格調高いものにしました。夫のジョンのほうは、ピアノがあっても、せいぜい大声で勇ましげに歌う程度だったでしょう。だがジャクリーヌは違いました。彼女のセンスによって、あの屋敷には、リモージュ焼の陶器のような繊細な雰囲気が備わったのです。」

伝記作家 ドリス・カーンズ「彼女はファーストレディの座を大いに楽しみました。でも時にはその座を降りて、プライバシーを守りたいと感じました。特に子供たちに関しては、その気持ちが強かったようです。普段はスポットライトを浴びたがる彼女にも、そっとしておいてほしいときがあったんです。」

大統領夫妻には、二人の幼い子供がいた。キャロラインとジョン・ジュニアは、今世紀にホワイトハウスで暮らした、最も幼い家族だった。大統領は、時折子供たちを執務室で遊ばせ、それは報道陣に格好の写真を提供した。

ジョン・F・ケネディは、テレビの記者会見を頻繁に利用した。

(当時)ワシントン・ポスト編集長 ベン・ブラッドレー「彼はテレビ時代の大統領でした。メディアの活用にかけては、本能的な勘があったようです。」

「彼は、人を磁石のように引きつける力を持っていました。ただしそれは、話の中身というよりは、気の利いたセリフのせいでした。」

大統領の苦難

スタイルだけでは務まらない問題が、新大統領を待ち構えていた。問題の発火点は、キューバだった。アメリカの目と鼻の先にある社会主義の砦を破るために、中央情報局、CIAは、大統領にある作戦を提案した。ゲリラを秘密裏に派遣して反カストロ派と合流させる。キューバ・ピッグス湾上陸作戦は中南米から共産勢力を締め出す機会だった。だが、大きなリスクが伴うのも事実であった。

4月、ついにケネディは決断した。作戦は裏目に出た。上陸開始直後、大統領は内外の反響を恐れて、空軍の支援を中止させた。援護を失った上陸軍は、即座に動きを封じられた。

JFKの友人 チャールズ・スポルディング「まるで、トウモロコシ畑にゴルフボールを打ち込むようなもので、始めた瞬間からジョンは後悔していました。」

1,189人の捕虜と、114人の戦死者を出し、作戦は屈辱的な失敗に終わった。批評家の風当たりは強かった。マスコミは彼を、未熟で優柔不断だと書きたてた。公式の場では冷静を装ったケネディも、内心打ちのめされていた。

ロバート

司法長官となった弟のロバートは、窮地の兄に呼び寄せられた。危機の際に頼れるのは家族だけだ、と大統領は悟ったのである。ジョンソン副大統領は、仲間にこう漏らしている。あれ以来ロバートは大統領の非公式な最高顧問になった。

(当時)ロバートの補佐役 ジョン・ジーゲンサーラー「要するにロバートは、兄の大統領の座を守ることを、何よりも大事にしたのです。彼は喜んで悪役になりましたし、兄への攻撃を自ら受けて立ちました。一家の中で彼はそういう役回りに徹したのです。」

(当時)ワシントン・タイムズ編集長 フランク・ウォルドロップ「ロバートは父親似でしたが、策士めいたところはありませんでした。単刀直入で、からかうと本気で殴り掛かってくるタイプでした。」

司法省においても、ロバートは衝突をも辞さない態度を貫いた。彼は組織犯罪に戦いを挑み、これまでにない大がかりな調査に着手した。調査リストには、40人ほどのギャングの名が連ねられた。そのリストの中には、兄の大統領と個人的なつながりのある、サム・ジアンカーナの名もあった。

〔ジアンカーナの公聴会〕「ジアンカーナ、指図したのはあなたですね?」

サム・ジアンカーナ「不利な証言はしない。」

「関与した事件について話してください。」

サム・ジアンカーナ「不利な証言はしない。」

「薄ら笑いはやめなさい。」「フフン。」

だが、同じころ、CIAはジアンカーナをカストロ暗殺計画に抱き込んでいた。ジアンカーナは、女優ジュディス・キャンベルを通じて、大統領と接触を持っている。CIAの計画には、大統領も絡んでいると想像された。

女優 ジュディス・キャンベル「ジョンは、暗殺という言葉は使いませんでした。カストロの抹殺と言ったのです。」

大統領は、カストロの抹殺にヒステリックになっていた。そう、当時の国防長官は語っている。ロバートは、相矛盾する二つの目的を遂行する立場に置かれた。彼は、兄とギャングとの交際を怒ったが、暗殺計画を阻止しようとはしなかった。

歴史学者 マイケル・ベシュロス「大統領は、ギャングを使った暗殺計画に関わっていたはずです。だが同じ時期になぜ、弟がギャングを排斥しようとしていたのかは、つじつまの合わない謎です。ジョン・F・ケネディは、大統領職に矛盾はつきものだと考えていたのかもしれません。」

フルシチョフ

1961年5月、カナダ訪問の際に、ケネディは元気な姿を見せようとする。植樹式で10回も掘った彼は、もともと強くない背骨をひどく痛めてしまった。運悪く、その直後にはウィーンでの米ソ首脳会談が控えていた。フルシチョフは、ケネディの父親ほどの年齢で、老獪な政治家だった。

歴史学者 マイケル・ベシュロス「ケネディは、この密室での会談によって、冷戦の雲行きが変わることを期待していました。少なくとも彼が任期を終えるまでは、ソビエトとの衝突を回避したかったのです。」

ソビエト側の対応は厳しいものだった。ベルリン問題で両者は真っ向からぶつかった。フルシチョフは、西側への人々の脱出を阻止するため、西ベルリンへ侵攻すると脅した。そして、アメリカがもし介入するなら戦争に突入すると警告した。

(当時)サンデー・タイムズ記者 ヘンリー・ブランドン「扉から出てきたとき、ケネディは茫然としていました。完全に我を失っている人の顔でした。向かい側にいた私を、彼はじっと見つめていましたが、私が誰であるかさえわからないようなのです。余程ショックだったのでしょう。」

衝撃から立ち直れないまま、大統領は帰国の途に就いた。彼は側近たちに、アメリカが核攻撃にさらされるかもしれない、と漏らした。それから2か月後、東側は突然、ベルリンを二分する壁を張り巡らせた。「壁か。」とケネディ大統領はつぶやいた。「戦争よりはずっとましだ。」

一触即発の危機は去ったが、アメリカが後手に回った印象はぬぐえなかった。どこかに、西側の威信を見せつける場が必要だった。うってつけの場所がある、ベトナムだ、とケネディは記者団に語った。当時、南ベトナムでは政府軍と解放民族戦線とが内戦を続けていた。1961年の秋、ケネディは南ベトナムに大量の軍事顧問を派遣する。

エドワード

父親のジョーゼフ・ケネディは、野心をすべて満たしたかに見えた。73歳の誕生日、彼は17人の孫たちに囲まれていた。だがもう一人、政界に椅子を持たない息子が残っていた。末っ子のエドワード。彼は29歳の若さだった。エドワードはハーバード大学を卒業後、ジョーン・ベネットと結婚。マサチューセッツ州で、地方検事補として、社会生活のスタートを切っていた。まだすべてがこれからという末息子に、父ジョーゼフはいきなり上院議員を目指せと言った。上の二人はほしいものを手に入れた。今度は、お前の番だ。

兄が上院から大統領府に移ったことで、上院には一つ空席が生じていた。それをエドワードにというのが、父親の考えだった。

ジョーゼフの悲劇の始まり

1961年暮れ。大統領が父のもとを訪れたとき、ジョーゼフは上機嫌で息子を迎えた。だが、息子の帰りを見送った後、ジョーゼフは、脳溢血の発作に襲われる。

「みんな、初めは必ず良くなると信じていました。ケネディ家の人間は立ち直る。立ち直らないわけがないと考えたのです。ですから、父親に少しでも良い兆候が見られると、素晴らしいと言って喜び、励ましました。けれども、しだいしだいに、もう回復の見込みはないとわかってきたのです。」

ジョーゼフ・ケネディの力あふれる人生は、終わったに等しかった。言葉と右半身の感覚をなくした彼は、もはや、無力に横たわるのみとなった。ひたすらのし上がり、後半は息子たちの黒幕に徹したジョーゼフは、彼にとって、苦しみに満ちたエピローグの日々が始まった。

買収失敗

エドワードは30歳を迎えると同時に、上院選挙の準備に入った。そして、同じ議席を、下院議長の甥であるマコーマックが狙うとわかると、すぐに裏で説得を試みた。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「民主党から二人立つのは具合が悪いというのが、ケネディ側の言い分でした。党のためにもよくないし、ワシントンにも少なからず悪影響を及ぼすだろうというのです。大統領は私に相談を持ちかけ、マコーマック側と取引してくれと言いました。彼は、マコーマックの抱えている借金を肩代わりしよう、いいコネも紹介する。さらに、大使でもなんでも好きな地位につかせよう、と約束しました。私は、言われた通りを下院議長に伝えました。それを議長が、甥のマコーマックに伝え、私も直にマコーマックと話しました。だがそれでも、相手は出馬の意思を曲げなかったのです。」

買収は失敗に終わった。候補者のテレビ討論会が開かれる直前、二人の兄は、弟に挑発に乗るなと言い聞かせた。

四男 上院議員 エドワード・ケネディ「大統領執務室で、兄と側近たちから質問攻めにあいました。まるで脅されているような気分でしたが、それは本番に向かう前の練習だったのです。」

ケネディ側が予測した通り、相手のマコーマックはエドワードへの個人攻撃に出た。

E・マコーマック「君の姓がムーアだったら。立候補した君の名前がエドワード・ムーアだったら、皆のお笑い草だ。だが皆笑わない。誰も笑わない。それは、君の姓がケネディだからだ。君の名前が何であろうと、君の中身に変わりはない。」

マコーマックの攻撃は逆効果となり、エドワードは民主党から立つことになった。この年の末、彼は念願の議席を獲得する。

JFKの女性関係 暗黒街とのつながり

大統領の45歳の誕生日、妻のジャクリーヌは、一人で乗馬に出かけた。そのころ、マディソン・スクエアガーデンでは、マリリン・モンローが、大統領のために歌っていた。

マリリン・モンロー「♪Happy birth day to you, Happy birth day to you, happy birthday Mr.President, happy birth day to you.」

マリリン・モンローは、大統領を飾りたてるあでやかな花となった。二人の関係については、様々な憶測がなされている。

ジョン・F・ケネディ「この歌を聴かせてもらっただけで、引退しても本望ですね。」

(当時)JFKの側近 アーサー・シュレジンジャー「会が終わってから、内輪のパーティが開かれました。マリリン・モンローと話すのは、水の中の生き物と話すみたいでした。つまり、楽しいんだかつまらないんだか、全く分からないんです。」

JFKの友人 ウィリアム・ウォルトン「マリリンとジョンの関係について噂はいろいろですが、私はそれほど深い関係じゃなかったと思います。ジョンの女性関係が多かったのは事実で、私もそのいくつかは知っています。ケネディたちには、それは珍しくないことであって、彼らに一夫一婦制のしきたりは、当てはまらなかったんです。」

女優 ジュディス・キャンベル「記者たちは、みな彼に好意的でした。彼がマスコミを喜ばせるコツを心得ていたからです。記者たちは、よいネタをたくさん与えてくれる彼に感謝し、そのぶん、私生活に余分な首をつっこむのを控えました。そんなふうにして、ジョンはこのまま好き勝手にやっていけると過信していました。そして、危険な綱渡りを続けていたのです。」

ケネディの行動は、容認されうる限界に達していた。連邦捜査局、FBIは、キャンベルを通じた大統領とジアンカーナの関係を追っていた。FBI長官のフーバーは、大統領と二人きりで会い、これ以上深みにはまると、ギャングに脅迫される恐れがあると警告していた。

女優 ジュディス・キャンベル「ジョンから電話があり、ワシントンに来いと言われました。できないと答えると、私が電話をかける場所を別に指定されました。私の電話は盗聴されているというのです。」

ケネディと暗黒街をつなぐ糸は、完全には絶たれなかった。だが、ギャングとのつながりの深い、フランクシナトラとの交際は、これを機に消滅した。

伝記作家 ナイジェル・ハミルトン「誰にも愛された人物について、彼の真実を掘り起こすのはつらい作業です。だが、彼は性的な欲望に振り回され、無謀な冒険を好み、自分を抑えられない大統領だったというべきです。そのような大統領は、自らの座を危うくするばかりか、国を危険にさらしかねません。周囲は、事実を知りながら、彼を制することができなかったのです。」

キューバ危機

1962年の秋、冷戦のクライマックスともいうべき事件が、ケネディ政権を直撃する。大統領は、再びその外交手腕を問われることになった。10月16日、大統領のもとに、偵察機U-2が撮影した、キューバ基地の写真が届けられた。そこには、ソビエトが密かに建設中の核ミサイル発射台が映っていた。ワシントンに衝撃が走った。ミサイルは、ニューヨーク、シカゴ、ワシントンを全て、射程内に収めていたのである。それは、アメリカのキューバ侵攻をけん制する、フルシチョフの作戦ととれた。だが、核ミサイルが至近距離に置かれるのを、許すわけにはいかなかった。大統領は、極秘で専門家を招集した。ピッグズ湾での失敗から、彼は、軍部やCIAだけに頼るのは危険だと考えた。

(当時)財務省長官 ダグラス・ディロン「対ソビエト問題に、以前から携わっていた私たちは、何よりもまず、迅速な攻撃を勧めました。出席者の大半は同じ意見でした。しかしその意見に真っ向から反対したのが、ロバートでした。ロバートは、それは正当な理由のない攻撃になる、と主張しました。基地の兵士ばかりでなく、一般の人々にも多くの犠牲者が出て、アメリカは、世界から悪評を買うだろうと言いました。」

(当時)情報局局長 ロジャー・ヒルズマン「ロバートは雄弁でした。我々は日本の東条英機のようであってはならない。真珠湾攻撃のような真似はするまいと言ったのです。そして、奇襲攻撃以外にも、アメリカの強さを見せつける方法があるはずだ、と主張しました。」

激論は、6日間にわたった。

ジョン・F・ケネディ「市民の皆さん、政府はソ連の軍事増強を監視するべく――キューバの海上封鎖を断行します。」

10月22日、ケネディは、未曽有の危機が迫っていることを発表し、ミサイルが撤去されるまでは海上を封鎖すると宣言した。攻撃を迫る軍部の圧力に、ケネディ政権はひたすら耐え続けた。核戦争の予感は、国民を恐怖に陥れた。

ロバートの次男 ロバート・ケネディ・ジュニア「あのとき、避難すべきかどうか、家族で話し合ったのを覚えています。キャンプ・デービッドには地下シェルターがあり、大統領の親族は入れたのです。だが父は反対し、二つの理由を挙げました。一つは、私たちが逃げ出せば、ワシントン市民がパニックに陥るかもしれないこと。そしてもう一つは、もし核戦争になってから、生き残っても仕方がないということでした。」

緊迫した状況交渉の末、数日後フルシチョフは、ミサイルの撤去を承諾した。ケネディ政権は対ソビエト外交における手腕を、ようやく内外に実証したのである。冷戦最大の危機が去ったその日、ケネディは身の引き締まる思いでいた。世界はなんと壊れやすく、危険に満ちていることか。この試練は、大統領としてのケネディの転換点となった。

伝説の演説

核の危険を遠ざけるため、彼は積極的に働きかけ始めた。部分的核実験禁止条約は、そうした成果の一つである。緊張緩和と共存は、対ソビエト外交の基本テーマとなっていく。

ジョン・F・ケネディ「ソ連にどう対応すべきか、社会組織が悪であっても――その国民に特別な悪はありません。一つの地球を分かち合っている点で、我々は等しい存在です。同じ空気を吸い――そして、我々はすべて死すべき運命なのです。」

1963年の夏、ケネディは訪問先の西ベルリンで熱狂的な歓迎を受けた。キューバミサイル危機を乗り越えて以来、西側指導者としての彼の評価は確かなものになっていた。ケネディの言葉は、壁に囲まれたベルリン市民を勇気づけた。

ジョン・F・ケネディ「自由であることこそが、ベルリン市民のあかし。自由なる者の1人として申し上げます。私もまた――ベルリン市民です。」

だが、彼が掲げた自由の旗を、アメリカの黒人たちは疑いの目で見ていた。

人種対立と公民権運動

(当時)国際開発局 局長 ロジャー・ウィルキンズ「私たちは、ケネディ大統領をあまり信用していませんでした。表面ではいい顔をしながら、裏では私たちの運動を妨げているように見えたからです。」

人種対立が暴力的にエスカレートするに及んで、ケネディは事の重大さに気づいた。彼は、公民権法案に本腰で取り組む必要を感じ始めた。

(当時)司法長官 補佐 バーク・マーシャル「彼の顧問の大半は反対しました。公民権法案を仮に提出したところで、議会を通過するはずがないと考えたのです。それに、白人の反発を買うことは、政権にとって非常に危険でした。」

ロバートだけは違う反応をした。彼は、公民権運動を重視し、自らその先頭に立った。

ロバートの伝記作家 アーサー・シュレジンジャー「ロバート・ケネディは情熱の人でした。公民権の問題を、彼は真っ直ぐに受け止めました。そんな率直さを、いくらか大人げないとみなしていたジョンも、弟の情熱に、しだいに心を動かされたのです。」

ロバートは、なおも逡巡する大統領と側近たちを説得した。大統領が、進んで公民権法案を支持すべきだと彼は力説した。

ロバート・ケネディ「これ以上沈黙すべきではありません。大統領の考えを、テレビで打ち出すべきです。」

最終的に、兄は、弟の意見に従うことを決めた。

(当時)国際開発局局長 ロジャー・ウィルキンス「急に大統領は雄弁になりました。公民権問題について、情熱を傾け始めたんです。」

(当時)公民権運動活動家 ジョン・ルイス「6月の夕べ、彼がアメリカ国民の魂に呼びかけたあの演説を、私は忘れません。」

ジョン・F・ケネディ「これは人道的な問題です。聖書の昔から存在し、憲法にも示された問題です。憲法が示すとおり――すべての国民は、平等な権利と機会を持つべきです。自分がこうありたいと願うことを、黒人にも保証すべきです。」

(当時)国際開発局局長 ロジャー・ウィルキンズ「上院議員になったばかりのジョン・F・ケネディと、大統領として人種問題と戦ったころの彼には、驚くほどの開きが感じられます。アメリカの白人の大部分は、昔も今も差別的な思想を抱いています。両親が余程すぐれた人物でない限り、それは無理からぬことです。けれども、希望はあるのだということを、ケネディは示してくれました。つまり、知識を得ることによって、白人が自ら持っている差別意識を克服することは可能なのです。人種差別という、大きな誤りに気付くことができるのです。ジョン・F・ケネディは、そうした理想的な変化を遂げた白人の代表でした。」

ベトナム戦争への介入

1963年の夏の終わり。一家は、父ジョーゼフが余生を過ごすマサチューセッツ州ハイアニスポートに集まった。その夏は、ジョーゼフの孫が一人増えるはずだった。だが、ジョンとジャクリーヌの間に生まれた3番目の子供は、生後まもなく亡くなった。ジョンは、息子を失った悲しみを抱えていたが、大統領の任務は彼を離さなかった。その日の午後、ケネディはベトナム問題についてインタビューに応じた。そのころアメリカは、介入を強化し、16,000人の兵士をベトナムに派遣していた。

ジョン・F・ケネディ「これはベトナム人同士の戦いです。私たちにできるのは支援のみであって、戦争の主体は彼らです。」

撤退への意思をちらつかせたのちに、ケネディは、全く反対の強硬意見を付け加えている。

ジョン・F・ケネディ「撤退には反対します。大きな過ちです。47人の死者が出た今、撤退を求める声もあるが、これは非常に重要な戦いです。対岸の火事ではありません。」

彼のあいまいな論調は、政権内の深刻な意見対立を反映するものだった。明確な態度を打ち出せないまま、アメリカはずるずると内戦への介入を続けていく。ベトナム戦争の泥沼化は、ケネディ政権とともに始まった。

ジョン・F・ケネディ暗殺

1964年の大統領選挙が近づいていた。

ジョン・F・ケネディ「まず、弟のエドワードに感謝します。礼服を借りたので。次の選挙運動の開始が、すぐそこに迫っています。頼りになる弟がいるので、心強いかぎりです。」

ジャーナリスト JFKの友人 チャールズ・バートレット「ケネディは、2期目を務めることを強く望んでいたようです。あるとき、妙な話題ですが、死んだらどこへ埋めてもらいたいかという話を彼としました。彼はボストンだと言いました。なぜなら、いつか自分を記念する図書館をボストンに建てたいからというのです。だが、彼は続けて言いました。そのためには、まず再選されることだ。」

11月、遊説に出る前に、大統領は父親のもとを訪れていた。

(当時)JFKの側近 デイブ・パワーズ「月曜日の朝、大統領の一行はヘリコプターで発つことになりました。車椅子の人となって久しいジョーゼフ・ケネディも、ポーチまで息子を見送りに出ました。離陸の準備が整い、ヘリに乗り込む直前、大統領は父親のそばに歩み寄りました。そして肩に手を置いて、額にキスしたのです。離陸後、彼は窓の下を見ながらこう言いました。父さんを見てごらん、みんなあの人のおかげなんだ。」

(当時)下院議員 ジョージ・スマザーズ「私はワシントンまで同行しました。大統領専用機の中で、彼は横になったままぼやいていました。テキサスに行きたくないな、来週行く予定なんだけど、気が重くてたまらないよ。どうにかして逃れたいんだがね。」

(当時)JFKの顧問 テッド・ソレンセン「その秋、ケネディは翌年の大統領選に向けて遊説を始めました。なによりまず、公民権法以来、人気が下り坂になった南部で、挽回策を打つ必要がありました。テキサスは、民主党の二つの派閥が反目しており、それを解消するために、彼はダラスへ行ったのです。」

(当時)下院議員 ジョージ・スマザーズ「彼は言いました。副大統領のジョンソンは、次の選挙でも僕と組みたがっているんだがね。テキサス州知事のコナリーも、チャンスを狙っているんだ。ジョンソンとコナリーは、もとは同じ派閥だが、そのせいでややこしいことになってね。ダラスへ行けば、ごたごたに巻き込まれるのは目に見えている。何とか避けて通れないかな。」

11月22日の昼過ぎ、ジョーゼフ・ケネディは、ハイアニスポートの自宅で静かに休んでいた。

(当時)ジョーゼフの介護人 リタ・ダラス「下の部屋で突然悲鳴が聞こえたかと思うと、メイドの1人が大声で私を呼んだのです。私は、2階の長い廊下を走り、何事かと確かめに行きました。メイドは真っ青な顔で、大統領が撃たれましたと言いました。そこへ何も知らないローズ夫人がやってきて、騒がしいのはやめてちょうだいと叱りました。私は、大統領に何か事故があったようですと告げました。そして、それ以上私の口からは言いたくなかったので、テレビで報道されている様子ですと伝えました。ローズ夫人は無言で私の顔を見つめ、それからすぐに自分の部屋へ引き返していきました。」

知らせが入ったとき、末の弟エドワードは上院議会に出席中だった。司法長官のロバートは、自宅にいた。FBI長官フーバーからの電話に、弟は一瞬、返事の声を失った。

アナウンサー「テキサス州ダラスから速報です。ケネディ大統領が午後1時、死去されました。東部標準時間では午後2時。今から38分前のことです。」

ケネディ家の友人 チャールズ・スポルディング「遺体は、ホワイトハウスのリンカーン・ルームに安置されました。その夜、葬儀の手配のためにロバートは泊まり込みました。私は遅くまで一緒にいましたが、少し眠らせなければと思い、睡眠薬を与えました。部屋を出て、しばらく様子を気にしていると、やがて、すすり泣きが聞こえてきたんです。ロバートのつぶやきが聞こえました。なぜ、なぜなんだ。僕らはうまくやっていたじゃないか。何もかも順調だったのに。なぜなんだ。何度も何度も繰り返し、そのうちに静かになりました。」

(当時)ジョーゼフの介護人 リタ・ダラス「夜になって、ユーニスとエドワードが、父親にニュースを知らせに来ました。ユーニスは、父親の膝にすがるようにしてこう言いました。父さん、ジョンに事故があったの。ジョンは天国に行ったわ。天国にいるから大丈夫よ。次の朝私は新聞を渡すのが忍びなくて、ドレッサーの上にそっと置きました。するとジョーゼフは、私を見て、新聞を指さしました。悪い知らせが載っています。憶えておいでですかと言うと、彼は言葉が言えない代わりに、私の目をじっと見つめました。新聞を渡すと、彼の目はしばらく見出しの上に注がれていました。そして、枕に頭をうずめたのです。恐ろしいほど静かでした。そっと覗くと、めったに泣かなかった人の頬に、涙が伝わっていました。」

それは、ジョン・F・ケネディの輝かしい大統領就任からわずか1,037日目の悲劇だった。

国葬

11月24日、家族は、ホワイトハウスから出ていくジョンの棺に、最後の見送りをした。

妻ジャクリーヌの希望によって棺はその後18時間、国会議事堂のドームに安置されることになった。葬儀は、エイブラハム・リンカーンと同じスタイルで行われた。

南北戦争の英雄と同じように、棺はペンシルベニア通りを厳かに進んでいった。20万人以上の弔問者が、国会議事堂を取り巻き、その列は数キロに及んだ。

最高裁長官、ウォーレン率いる委員会は、暗殺は単独犯によるものと断定した。だが、国民の多くは、その結論に疑問の念を抱いた。

アメリカは、その後長きにわたって事件の意味を問い続け、ジョン・F・ケネディは、死の瞬間から、伝説の世界の人物となった。

「ジャクリーヌは、夫の思い出を美しく飾り立て、永遠に国民の心にとどめたかったのでしょう。ケネディ伝説にさらなる彩りを添えるため、彼女は暗殺直後、ある演出を仕組みました。亡き夫がミュージカルのキャメロットを好んでいたことを、インタビューの席で語ったのです。キャメロットとは、アーサー王伝説の物語です。記者はその題名からひらめきを得て、記事を書き上げました。以来、ケネディには、アーサー王伝説のイメージがだぶるようになったのです。」

伝説を背負うことが、残された者の使命となった。ロバートは、運命の声を聞いた。次は、お前が出る番だ。

〔第3回 “我らすべて死すべき運命”〕

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