ケネディ家 野望と権力の系譜 第4章 ~悲劇の相続~
プロローグ
1964年、7月の民主党大会。ケネディ大統領の暗殺から、8か月が経過していた。弟のロバートは、亡くなった兄への献辞を述べようとしたとき、割れるような喝采が、20分間も続いた。
ロバート・ケネディ「少しだけお話しさせていただきます。まず、この場を借りてお礼を申し上げます。全国の民主党支持の方々の――故ケネディ大統領へのご厚情に感謝いたします。彼を思い出すとき、ロミオとジュリエットの一節が浮かびます。“彼が死んだら、星屑にして夜空に飾ろう。そうすれば人は夜に恋し、昼などあがめなくなる”。」
演説を終えた瞬間、ロバートは、権力への階段に足を踏み出していた。
〔第4回 悲劇の相続〕
喪失の悲嘆
1963年、11月26日。ジョン・F・ケネディの権力の日々は、突然の暴力によって、ピリオドが打たれた。〔ケネディ大統領 国葬〕
兄を、そして兄の政権を支え続けてきたロバートにとって、それは、彼自身の人生を見失うほどの苦しみだった。
ロバートの次男 下院議員 ロバート・ケネディ・ジュニア「事件以来、父はあまり口をきかなくなりました。ひどく内省的になり、部屋に閉じこもって本を読みふけっていました。そして、手に取る本といえば、ギリシャ悲劇や、実存主義の小説など、人間の悲劇を深く扱ったものばかりでした。」
リンドン・ジョンソンとの確執
(当時)ジョンソン大統領顧問 クラーク・クリフォード「ロバートは政府内で、耐え難い苦痛を味わっていました。自分が最も嫌悪する人物が、兄に代わって大統領執務室に陣取ったのです。ロバートは、副大統領だったリンドン・ジョンソンとは、ずっと以前から、犬猿の仲でした。大統領となったジョンソンに対して、彼が口にする言葉は、常に辛辣で、とげを含んでいました。」
1964年、公民権法が調印された。ケネディ政権の成果が、ジョンソンのもとで実を結ぶのを、ロバートは複雑な思いで見つめていた。そして彼は、今後の去就についても迷っていた。来る選挙で、ジョンソンが彼を副大統領候補に選ぶかどうかは、疑問だった。
ロバート・ケネディ「今のところ――上院議員には立候補するか、州知事を目指すかを思案中です。」
アナウンサー「副大統領候補の可能性も当然あるかと思いますが?」
ロバート・ケネディ「それに関しては党大会と――ジョンソン大統領の意見次第です。」
アナウンサー「大統領との関係は?」
ロバート・ケネディ「良好です。問題ありません。」
アナウンサー「彼が副大統領になったとき、あなたは反対したとか?」
ロバート・ケネディ「彼を副大統領に選んだのはケネディ大統領であり、私は大統領の意向を尊重しました。」
(当時)ケネディ家の顧問 テッド・ソレンセン「明らかに、ロバートはジョンソンとは異なる立場に立ち、異なる目的を抱いていました。ロバートが政権内でやろうとしたのは、前のケネディ大統領の意思を遂行する事だけでした。ジョンソンが、現大統領としてロバートを退けたのは、当然と言えば当然です。」
ジョンソン大統領「副大統領選出にあたって民主党綱領を検討した結果、以下の結論が導き出されました。前閣僚および前閣僚と定期的に接触していた人物は、副大統領候補から除外します。」
ジョンソンは、ロバートを次期政権に寄せ付けないための法律を見出した。副大統領候補には、かつてのジョン・F・ケネディのライバル、ヒューバート・ハンフリーが選ばれた。
ニューヨーク州からの立候補
党大会が開かれるより前に、ロバートのほうも、異なる道を歩き始めていた。ニューヨーク州から上院選に出馬することを決めたのである。激しい戦いが予想された。ロバートはニューヨークの住民ではなく、拠り所となる足場も、地元の支援組織も持っていなかった。
(当時)ロバートの広報担当秘書 エド・ガスマン「バッファロー地区で運動を行ったとき、大勢の群衆が詰めかけて、大盛況となりました。夜の11時にホテルに戻り、私は、素晴らしい成果でしたね、と言いました。すると彼は向き直ってこう言ったのです。いや、僕のために来てるんじゃない。兄のためだよ。」
ロバート・ケネディ「闘う用意はいいですか?ベルリンへ行こう。ベトナムでもあなた方の力が必要です。」
ロバートは、大衆を引きつけるという不慣れな任務に全力で立ち向かった。接戦の末、彼は辛くも勝利を手にする。
ロバートの長男 下院議員 ジョーゼフ・ケネディⅡ「投票日のことはよく覚えています。予想よりもずっと厳しい戦いで、最後まで緊張し通しでした。キャンペーン中はあんなに大勢の人が集まったのに、父は55%というぎりぎりの得票率で当選しました。つまり、二人に一人は、父を選ばなかったのです。あのとき僕はつくづく、群衆などあてにならないものだと思い知りました。」
〔第36代大統領 リンドン・B・ジョンソン〕1965年、大統領職は、リンドン・ジョンソンに委ねられた。壇上にはジョンが立つはずだった、と、残された弟たちは、悔しさとやりきれなさに襲われていた。兄の手からこぼれ落ちた権力を取り戻してみせる、彼らは、そう心に誓った。
マウント・ケネディ登頂
1965年3月、カナダで発見された未踏峰の山に、マウント・ケネディの名がつけられた。初挑戦の登山隊が編成されたとき、ロバートは、自分も加わりたいと言った。標高4,267メートル。高山病に苦しみながらロバートは進んだ。その姿に、誰もが、彼の内なる決意を感じ取った。
登山家 ジェームズ・ホイタッカー「頂上まであとわずかの地点で、私たちは立ち止まりました。ロバート・ケネディは、そこからゆっくりと歩み、1人で頂上に立ちました。マウント・ケネディの頂で、彼はこみ上げる涙を抑えようとはしませんでした。雲一つない素晴らしい天気で、頂上からは、はるか彼方の峰々が一望のもとに見渡せました。そして上空には、初登頂の瞬間を撮影する飛行機が、ゆっくりと旋回していました。」
ロバートの手で、頂上にはケネディ家の紋章旗が立てられた。一つの儀式を終えた彼は、これから登らんとする権力の裾野に引き返した。
ロバートの視点
ロバートは、少数民族や貧しい人々の問題に目を向け始めた。それは、兄のジョンにはなかった視点だった。
(当時)農業労働者団体 指導者 シーザー・チャベス「それまでは誰も、私たちの問題に見向きもしませんでした。だが彼によって状況が変わりました。」
(当時)農業労働者団体 指導者 ドロレス・フエルタ「彼は誠実で、自分のことのように熱心に取り組んでくれました。常に現場に出かけ、労働者たちの生の声を聞いたのです。だから私たちも彼を信頼しました。」
(当時)ジョンソンの広報担当者 ジョージ・リーディー「ロバートは、反対派にもそれなりの言い分があるなどとは思いもしませんでした。激しい気性で、何かに熱中すると、その目はまるで相手を焼き尽くすように、ぎらぎらと燃え上がりました。」
ロバート・ケネディ「なぜ逮捕したのですか。」
回答者「法を犯そうとしたからです。」
ロバート・ケネディ「あなた方にお勧めする。昼休みに憲法を読みなさい。」
(当時)ジョンソンの広報担当者 ジョージ・リーディー「柔軟さというものが彼にはなく、神か悪魔か、二つに一つといった感じでした。」
社会的弱者の救済は、ロバートにとって一大争点となっていく。
(当時)公民権運動 活動家 マリアン・エーデルマン「彼に現実を知らせたくて、視察に同行してほしいと頼みました。見なければ、その悲惨さはわかりっこないからです。」
視察団が訪れた、ミシシッピ川のデルタ地帯には、収入の全くない人々が、身を寄せ合って暮らしていた。
ロバート・ケネディ「昼ごはんは?」
黒人の男の子「食べてない。」
ロバート・ケネディ「全然?」
黒人の男の子「うん。」
アナウンサー「貧困の問題についてどうお考えですか?」
ロバート・ケネディ「そうですね。確かにこの国には、重大な貧困の問題が存在しています。現在、我が国のGNPは約7,000億ドルあります。うち750億ドルは軍事費に充てられ、犬のためにさえ、30億ドル使われています。貧しい市民、特に子供たちのために、もっと使うべきです。」
リベラル派の最先端
ロバート・ケネディは、リベラル派の最先端に立った。彼の政治に取り組む意識は、もはや、父や兄を超えていた。
(当時)ロバートの側近 ピーター・エーデルマン「ロバートは、ジョンソン大統領とは全く離れた場所で、ぐんぐんと指導力を発揮し始めたのです。それはまるで、ジョンソンを無視した影の内閣のようでした。」
そのころ、ベトナム反戦運動は日ごとに高まり、リベラル派は、撤退を強く求めた。ベトナム難民問題では、エドワードも政府を非難する立場に立った。
四男 上院議員 エドワード・ケネディ「現地を視察して、民間の人々が悲惨な目に遭っているのを見ました。その強烈な印象は、後々まで心に残りました。」
(当時)ロバートの側近 アダム・ウォリンスキー「とりわけロバートは、ベトナム問題にジレンマを抱えていました。彼は兄とともに、政府の介入政策にずっと関わってきたのです。彼の性格として、これ以上見て見ぬふりなどできませんでした。」
ロバート・ケネディ「ベトナム介入は、ケネディ政権の誤ちであり、私もそれに関与しました。ベトナム問題については、我々全員にその責任があります。」
ジョンソン政権は、北ベトナムへの空爆を続行した。ロバートは、自らの非を認める発言によって、ジョンソンと完全に袂を分かった。周囲は、次期選挙でジョンソンを破りうる人物として彼に注目した。
(当時)ロバートの側近 アダム・ウォリンスキー「ジョンソン政権は弱体化していました。このままでは、1968年の大統領選挙で共和党に勝てそうもありませんでした。そのような時だからこそ、私はロバート・ケネディに大統領選への出馬を勧めたのです。」
(当時)ジョンソン大統領顧問 クラーク・クリフォード「私は待てと言いました。君の時代はきっと来る。だが今は時期尚早だと言ったのです。出馬すれば党を分裂させることになり、その負い目は、のちのちまで彼を苦しめるに違いありませんでした。」
ロバートの出馬については、一家も二の足を踏んでいた。その間隙をついて、別の対抗馬が名乗りを上げた。〔ユージン・マッカーシー〕1967年11月、ユージン・マッカーシー上院議員は、民主党の大統領候補を目指すと宣言した。
大統領選への立候補
年明け、ベトナムでは、解放民族戦線がサイゴンに大攻勢を仕掛けた。これを機に戦争反対派は一気に力を得、ジョンソンは苦境に置かれた。マッカーシーにチャンスをさらわれるわけにはいかない。そう感じたロバートは、ついに出馬を決意する。
(当時)ジョーゼフの介護人 リタ・ダラス「ロバートは、真っ先に両親のもとへ報告しに来ました。でも両親の反応は、彼が上院に立候補したときとは全く違っていました。二人とも喜ぶどころか、しんとしてしまったのです。父ジョーゼフは、うなだれたままでした。ロバートは、父をなだめるように、大丈夫、大丈夫、と繰り返していました。」
1968年3月、ロバート・ケネディは、上院事務所で、大統領選への出馬を表明した。そこはかつて、兄のジョンが選挙に踏み出した場所だった。ロバートは、演説を、兄と同じ言葉で始めた。
ロバート・ケネディ「大統領候補として立つことを宣言します。特定候補者に対抗するためではなく、新しい政治を築くためです。現在、我が国は大きな危険にさらされています。今、何をなすべきか、私は使命感を抱き、力の及ぶ限り尽くす覚悟です。」
ロバートの選挙戦は、マッカーシーに比べて、4か月も立ち遅れていた。前半の予備選挙の多くは、劣勢が予想された。
マッカーシーとの対決が最後になると見たロバートは、まずは、ジョンソンを攻撃の標的に定めた。ジョンソン政権が行ったベトナムでの大量爆撃は、格好の非難の材料だった。
(当時)ワシントン・ポスト記者 リチャード・ハーウッド「彼の演説は扇動的になりがちでした。私は雑誌の記事の中で、そのことを指摘しました。それから間もなく、私は取材に向かう途中、偶然飛行機の中で、彼の夫人と乗り合わせたのです。エセル夫人は近寄ってくるなり私の顔にその雑誌を投げつけました。」
ロバートは、ジョンソン大統領の不人気を煽り、それをばねにしようと狙っていた。ところが半月後、事態は一変する。
選挙運動の立て直し
ジョンソン大統領「ご報告いたします。次期大統領選について、私は出馬の意思を取り下げます。」
(当時)ロバートの側近 アダム・ウォリンスキー「ジョンソンが退いた途端、選挙戦の性格が変わりました。叩く相手を失ったロバート・ケネディは、路線の変更を強いられました。次の4年間に自分が何をなすか、そのことを前面に打ち出さねばならなくなったのです。」
運動を立て直す時間はわずかだった。対立候補と自分の違いがどこにあるのか、ロバートは大衆にアピールする決め手に欠いていた。
混乱と不安に包まれながら、ロバートは次の遊説先、インディアナ州に赴いた。
キング牧師の暗殺
(当時)ロバートの選挙スタッフ ジョン・ルイス「1968年、4月4日でした。その夜は、野外集会があり、私たちは準備に追われていました。始まる直前、私たちのもとに緊急ニュースが届きました。それは、マーチン・ルーサー・キング牧師が、暗殺されたという報せでした。」
群衆はまだ、その大ニュースを知らなかった。ロバートは、キング牧師の死について、人々に率直に語りかけた。
ロバート・ケネディ「M・L・キング牧師が狙撃され、死去しました。<(補足)聴衆の悲鳴>今、黒人の皆さんの心の中には、激しい怒りがこみ上げているでしょう。卑劣なる白人に不信が募る一方でしょう。私に言えるのは、私もまた、皆さんと同じ心でいることです。私の兄を殺した男もまた、白人にほかなりません。暴力や無秩序が、この世から消える日はないでしょう。だが、白人であれ黒人であれ、この国の大多数の市民は、共に良い未来を生きることを望んでいます。この世に正義を求めているのです。」
(当時)ロバートの選挙スタッフ ジョン・ルイス「キング牧師の葬儀のあと、大多数の黒人は、大切な友を失ったような悲しみに襲われました。だが私は自分に、こう言い聞かせました。私たちには、まだロバート・ケネディという味方がいる。」〔1968年4月4日キング牧師 暗殺〕
キング牧師殺害に対する怒りは、黒人と白人の対立をさらに深めた。ロバートは、進んで黒人たちの中に入っていった。車に群がり、握手を求め、カフスを引きちぎる人々に対して、彼は、何の防御もしなかった。
ケネディ家の伝記作家 ドリス・カーンズ「彼が姿を現すと、どこでも熱狂的な騒ぎが巻き起こりました。そのあまりの激しさに、革命が迫っていると恐れをなす人さえいたほどです。ロバートに心から期待する人もいました。彼はタフで、正直で、情熱家でした。貧しい労働者や黒人を惹きつけられる白人は、彼だけのように見えたのです。」
ロバート暗殺
アナウンサー「R・ケネディは予備選挙の初戦で勝利を収めました。」
アナウンサー「ネブラスカ州でR・ケネディが勝ちました。」
いくつかの州で、ロバートは巻き返しに成功した。だが、オレゴン州で敗退。続くカリフォルニア州では、マッカーシーと真っ向から対決することになった。当選するか否かは、黒人やラテン系の人たちの票にかかっていた。
(当時)農業労働者団体 指導者 シーザー・チャベス「私たちは選挙区を回って、棄権しないよう呼びかけました。そしてその日は、とても大勢の人が投票所に足を運んだのです。」
投票率は高く、ラテン系と黒人のほとんどは、ケネディに票を投じた。その夜、ホテルで勝利宣言が行われた。〔アンバサダー・ホテル 1968年6月5日〕それは、父でも兄でもない、ロバート自身が掴み取った勝利だった。
ロバート・ケネディ「ありがとう。次のシカゴでも勝ちましょう。」
(当時)ロバートの選挙参謀 フレッド・ダットン「群衆が興奮状態だったので、裏手から出ることにしました。通路の安全性はすでに警備の者に調べさせてあり、その方が安心と思われたのです。」
ロバートたちは、ホテルの厨房を通り抜けようとした。配膳係の少年が握手を求め、彼が手を伸ばしたそのとき、数発の銃声が響いた。
記者会見のため待機していた報道カメラが、血まみれで横たわるロバートの映像をとらえた。
市内の別のホテルでは、マッカーシー陣営が、ライバルの記者会見を見ようとテレビの前に集まっていた。
(当時)公民権運動活動家 マリアン・エーデルマン「私はそのときテレビを見ていました。事件が映った瞬間、恐怖が体を走り抜けました。キング牧師亡きあと、ロバート・ケネディは私たちの最後の希望でした。人道的で健全な国を築くために、彼はなくてはならない人だったのです。けれども惨劇は再び繰り返されました。暴力への道がぱっくりと口を開け、この国の希望を飲み込んだのです。」
次の日、すべての国民が、ロバートの容体を気遣っていた。
(当時)ジョーゼフの介護人 リタ・ダラス「大統領のジョンが殺されたとき、家族は必死で悲しみに耐えました。でもロバートが同じ目にあったとき、ローズ夫人は、息子が、息子が、と叫び、父親は泣きました。一家にはもう、悲しみをこらえる力さえもなかったのです。」
(註:ロバートが入院していた病院からの中継)「ロバート・ケネディ上院議員は、本日午前1時44分に亡くなりました。1968年6月6日。臨終を見取ったのは次の方々です。エセル夫人。妹、ジーン・スミス。姉、パトリシア・ローフォード。義弟のスティーブン・スミス。義姉の故ケネディ大統領夫人。享年42歳でした。」
(当時)司法長官 補佐 ロジャー・ウィルキンズ「終わりでした。なにもかも終わったのです。私たちの希望も、戦いの日々も、全てが、彼とともに潰えました。」
ロバートの葬儀
〔ロバート・ケネディ 葬儀〕
弟 エドワード「彼は良き兄であり、良き父、良き息子でした。彼は両親から多くを受け継ぎ、兄姉から多くを学び、若い世代に多くを伝えました。困難なときは力となり、不安なときは知恵となり、幸せなときは喜びを分かち合いました。
彼を愛し、別れの場に集う私たちは、彼が人々に与えた夢を心に深く刻みましょう。そして、彼の意思を継ぐのです。生前、彼が何度となく口にし、人々に語りかけた言葉を結びとします。
“あるがままの現実に、なぜと問うより――まだ見ぬ理想に、いつか必ずと誓おう” 。」
遺されたエドワード
ロバートの葬儀から一週間後。彼の両親と、残されたたった一人の弟は、テレビの取材を受けた。
母 ローズ「私たちは、時に、神のご意思を計りかねます。なぜ人を危機にさらし、なぜ犠牲を強いるのか。けれども神は、大いなる善と愛のお方です。私たちは神を信じ、我が道を歩みます。過去を悔やんだり、振り返ったりせず、勇気を持って進むのみです。」
エドワードの友人 上院議員 ジョン・タニー「おぞましい悪夢が繰り返され、闇がエドワードの心を取り巻いていました。一人残された彼は、猛烈な不安と、絶望のとりこになったのです。ロバートの死から少し経ったころ、私はエドワードを散歩に連れ出しました。そして、事件のことはもう忘れるんだと彼に言いました。
一人でいると、どうしてもそのことばかり浮かぶようでした。そして、次の犠牲者は自分なのだと思い詰めてしまうのです。そんなふうに考えちゃいけない、忘れろと、私は何度も言いました。」
2か月間、エドワードは公の場に出なかった。一度だけ彼は、上院の用務でワシントンに出かけた。だが、皆に会うのは耐えられないと言って、建物の前で引き返した。わずか36歳で、エドワードは大家族の支え手となった。
エドワード・ケネディ「私と家族の身を案じ、引退を勧める意見もありました。そうした方々の――ご親切とご配慮には深く感謝いたします。だが私は今日から――マサチューセッツ州での責務を再開いたします。兄たちのように倒れた旗を拾い上げ、兄たちの思い出を心の支えとして、前だけを見つめて進んでいきます。兄たちが貫いた正義と勇気とを引き継ぐのです。」
伝記作家 ドリス・カーンズ「それまで彼は、陽気で楽天的な末っ子として生きてきました。けれどもジョンが死に、ロバートも同じ悲運に見舞われると、突然、一家の夢と葛藤が彼の肩にのしかかってきたのです。彼は、全く違う人間になることを要求されました。重圧に耐えて、新しい生き方を掴めるかどうか、大きな分かれ目だったのです。」
チャパキディック事件
1969年7月16日、エドワードは、マサチューセッツのチャパキディック島で開かれたパーティに出席していた。彼はそこで、メアリー・ジョー・コペクニを、夜中のドライブに誘った。エドワードは車を運転し、コペクニは助手席に座っていた。
ダイク橋に差し掛かったところで、車は海に転落した。エドワードは自力で脱出したが、女性は車とともに沈んだ。翌朝、警察が車を発見するまで、彼は通報しなかった。轟轟たる非難が起こり、通報を怠ったかどで、彼は懲役2か月を求刑された。エドワードは沈黙を守り続けた。
事件から一週間後、求刑が却下された日に、彼はようやく、テレビでの釈明会見を行った。その原稿は、ケネディ派の顧問や弁護士が練り上げたものだった。
「私は謙虚な気持ちで――非難の声や辞職勧告を受けとめています。だが辞職は、苦しく難しい選択です。上院での7年の歳月は、私にとって深い意味を持っています。多くの思い出があります。輝かしい日々もあり、悲しみにくれる日々もありました。私の抱える思いをマサチューセッツの方々にご理解願いたいのです。」
マサチューセッツの人々は、エドワードに同情を示した。だが、自己弁護的な彼の言葉に、拒絶反応を示す人も多かった。
(当時)タイム記者 ヘイズ・ゴーリー「真実味がありませんでした。演説は極めて政治的で、自分の政治生命のことしか考えていなかったのです。」
(当時)ホワイトハウス報道官 ピエール・サリンジャー「おそらくは、周囲の進言が非常にまずかったのでしょう。エドワードは、第一に語るべきことを取り違えてしまいました。自己の進退ではなく、事件そのものをもっと正直に話すべきだったのです。」
チャパキディック事件は、エドワードの上院の座を奪いはしなかった。だが、より大きな希望の前に立ちふさがる壁となった。コペクニの葬儀から間もなく、民主党は、次期大統領候補を話し合った。エドワードを推す意見は、その場で取り下げられた。
(当時)ジョーゼフの介護人 リタ・ダラス「事件のことを、エドワードは父親に話しに来ました。そして、父さん、車に乗せた娘が溺れてしまった。事故だったんだ、と言いました。父親は身を起こして聞いていましたが、がっくりとして横たわりました。エドワードは、両手で顔を覆って、父さんどうしよう、どうしようとつぶやいていました。」
ジョーゼフの死
〔1969年11月18日 ジョーゼフ・P・ケネディ死去〕1969年11月18日。ジョーゼフ・ケネディは、81歳の生涯を閉じた。
臨終の前の晩、エドワードは、憔悴した父ジョーゼフを見守り続けた。
父が末息子に残した遺産は、あまりにも重かった。次の世代を育てることもまた、エドワードの役目だった。
だが、長男ががんで片足を切断したころから、彼の家庭は崩壊し始める。妻のジョーンはアルコール依存症に陥り、二人は別居した。
エドワードの大統領立候補
エドワード・ケネディは再選を重ね、上院議員としての実績を積み重ねていった。共和党のニクソン政権、フォード政権、民主党のカーター政権を通じて、彼はリベラル派の議員として知られていた。
上院での評判が高まった1980年、エドワードは、別居中の妻を呼び寄せ、中断していた一族の仕事を再開する。
(当時)下院議員 ティップ・オニール「彼がやってきてこう言いました。大統領選に出馬するにあたって、君の意見が聞きたいんだ。私はこう答えました。もう決意したんなら仕方がないがやめたほうがいい。大けがするぞ。あのスキャンダルがあるからな。」
チャパキディック事件は、完全に忘れられたわけではなった。また、暗殺される危険性がないという確証もなかった。それでもエドワードは、最後と思われるこのチャンスに賭けた。
元 ロバートの側近 アダム・ウォリンスキー「彼が背負っていた遺産は、巨大な重荷だったに違いありません。大統領にならない限り、彼は一家の使命を果たしたとはいえないのです。父と兄たちが掲げた目標を満たしたことにならないのです。それは人生の失敗を意味しました。彼自身もそう感じ、彼の周りの人もそう思うでしょう。挑戦はやめてしまったら、彼は残りの生涯を、後悔だけで生きなくてはなりません。これ以上苦しい重荷があるでしょうか。」
エドワード・ケネディ「今日私は、全国民の方々に向けて、ここボストンの会場からお話しします。私が生まれるよりずっと以前、私の祖父は、この場所で下院選に臨みました。今日、私は大統領選への立候補を宣言します。」
(当時)タイム記者 ヘイズ・ゴーリー「そのあとは、思った通りの結果になりました。マスコミは一斉に、チャパキディック事件を蒸し返し始めたのです。全く関係ない経済紙でさえ、事件の記事を写真入りで載せました。出版社やケネディの選挙事務所には、非難の電話や手紙が殺到しました。」
最後の演説
エドワードの支持率は、弱体と言われるカーターよりも下回った。ついに彼は、夏の党大会で敗北を宣言する。引き際の彼の言葉は、聴衆に深い印象を残した。
エドワード・ケネディ「この党大会も、やがて時のかなたに去り、歓声や音楽は消えます。静寂に戻るそのとき、信念を貫いた満足が残ることを願います。1980年の党大会が、確かな足跡を残すことを願います。
暗い日々も、明るい日々も、私の心にはテニソンの詩の一節があります。兄たちが愛した言葉です。
『人は きづなの中に生き 多くを失い 多くを得る それが我ら 我らの人生 雄々しき魂を内に抱き 逆境にあっても求め続けよ 歩みを止めるな』。
私自身の選挙戦は、数時間前に終わりました。だが私たち全員の大いなる挑戦は、終わりません。理想を掲げ、希望を胸に、果てなき夢を追うのです。」
その瞬間、ケネディ家の一つのドラマが幕を閉じた。父が始め、息子たちが受け継いだ大いなる夢。
その夢に、いつか若きケネディたちが再び挑む日が来るのだろうか。
一族を野望に駆り立て、アメリカの運命をも揺り動かしたのは、一人の父であった。
〔第4回 悲劇の相続〕(終)