ジョン・F・ケネディ大統領物語

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ケネディ家 野望と権力の系譜 第2章 ~ジョン・F・ケネディの魔力~

プロローグ

ケネディ家の「ジョーゼフ・ケネディは、自分に果たせなかった夢を子供に託しました。と同時に、彼なりのやり方で、猛烈に子供を愛しました。だから子供たちも父親を愛し、よく思われたいと努めたんです。」

(当時)サンデー・タイムズ記者 ヘンリー・ブランドン「ケネディの一族は、アメリカの政治史の中でも特異な存在です。いわば彼らは、民主主義国家の中の王朝みたいなものでした。その輝きと栄華は、ある時期まるで、永遠に不滅であるかのように見えたのです。」

女優 ジュディス・キャンベル「ジョンが生涯に成し遂げたことは、確かにすばらしいと思います。でも今語り伝えられているジョンのイメージは、本物の彼とはまるで違っています。ジョン・F・ケネディは、いつの間にか伝説の人物になってしまいました。かつて私が出会った人とは、もう全くの別人です。」

〔制作 テムズTV(英)、WGBH(米)――1992年――〕

〔ケネディ家・野望と権力の系譜(原題:THE Kennedys)〕

ケネディ一家

1948年の秋、感謝祭は、カトリック教徒のケネディ家にとって、全員で祝うべき大切な行事であった。だが、9人の子供のうち、長男のジョーはすでに戦死を遂げ、次女のキャスリーンも飛行機事故によって命を落としていた。また、長女のローズマリーはロボトミーの脳手術を受けて、話すことさえできなくなり、次男のジョンは、アジソン病という難病と闘っていた。父親のジョゼフは、一家を襲った不幸にさいなまれながらも、自らの夢を、生き残った最年長の息子にかけた。

ジョンの決意

下院議員となったジョンは、父の力に頼りながらも、それを重荷に感じていた。

司会者「かつてあなたの父上は、対外投資に批判的でしたが、あなたも同じ意見ですか?」

ジョン・F・ケネディ「基本的には似た意見ですが、対外援助の範囲については父と考えが異なります。私は西欧やアジアにおける西側の力の維持を重視します。」

1952年、ジョンは、ある飛躍を決意した。

(当時)下院議員 ジョージ・スマザーズ「ある日、ジョンがやって来るなりこう言うんです。上院選挙に出馬しようと思うんだ。私は、勝ち目がないからよせと言いました。相手は手ごわいし、君にはまだこれといった実績がない。僕らのような、一介の下院議員には望み薄だってね。だが彼は平然と言いました。大丈夫、やってみせる。」

ジョンは、メディアの力を大いに利用した。

ジョン・F・ケネディ「上院に選出された暁には、ニュー・イングランドの産業に貢献し…州と祖国の未来のために戦います。」

舞台裏では、父親が金をばらまき続けていた。彼はテレビの放映時間を買収し、新聞社に多額の資金を融資した。そのためか、共和党系の新聞までが、民主党候補のジョンへの支持を打ち出した。

ジョンには父親を操るだけの力量はなかった。ジョーゼフは選挙キャンペーンの一切を取り仕切り、気に入らない選挙参謀は即座に首にした。息子に対する父の支援は、全面的な支配にも等しかった。

そしてもう一人、ケネディ家のメンバーが、ジョンの選挙参謀に新たに加わった。三男のロバート。彼はまだ、大学を出て間もない、26歳の若者だった。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「世間知らずで、政治のことなど全く知らないのに、いきなり選挙参謀です。ロバートは組織のことから、果ては票の予測に至るまで、忙しい私たちを捕まえては聞きました。いったい自分を何様だと思ってるんだって、さすがに言ってやりたくなりましたね。」

ケネディたちは、民主党本部とは関係のない独自の運動を考案した。なかでも、豪華なティーパーティーの開催は、その目玉だった。

(当時)ジョンの補佐役 デイブ・パワーズ「ガスや電話代の請求書ばかり受け取っていた主婦のもとに、突然ケネディ夫人から招待状が届くんです。そして花に囲まれたホテルの広間で、お茶やお菓子のもてなしとくれば、効き目ありですよ。」

ケネディ陣営は善戦した。だが対抗馬である共和党のロッジも、強力な味方を引き入れようとしていた。

上院議員 J・マッカーシー「国務省に1人でも共産党員がいるなら、直ちにその共産党員を排除せねばなりません。」

ジョー・マッカーシーは、ボストンで絶大な支持を得ていた。ロッジは同じ共和党員として、彼の応援を求めた。

マッカーシーの伝記作家 ウィリアム・バックリー「マッカーシーは、自分がロッジの力になれると知っていました。だが彼は、アイルランド系カトリックで、ケネディ家と個人的に親しい間柄だったのです。しかも、ジョーゼフから資金援助も受けていました。」

マッカーシーは、ロッジの応援演説を断った。

マッカーシーの伝記作家 ウィリアム・バックリー「選挙は最後まで接戦でした。マッカーシーがロッジについていたら、ケネディの勝利はなかったかもしれません。7万票なんて、僅差ですから。」

ロバート・ケネディ「あと20分ほどの間に、およそ7万票の差で当選が確実になりそうです。」

ジョン・ケネディ「すると、獲得票数は225万票だね。」

ロバート・ケネディ「5パーセント差の勝利です。」

ジョン・ケネディ「そうか、ほっとしたね。」

ロバート・ケネディ「まったくだ。」

ジャクリーヌとの結婚

全国的には共和党員が圧勝している中で、ジョンは上院の議席を獲得した。このころ、ケネディ家は新しい家族を迎えることになった。ジャクリーヌ・ブービエ。ジョンは、彼女の相手を包み込むような眼差しに、深い魅力を感じた。上院選挙のあった1952年、二人は交際し始めた。

ジャクリーヌは、アメリカの名門の出で、フランス語やイタリア語も見事にこなした。23歳のとき、彼女はカメラマンの仕事を始めたが、間もなくジョンからプロポーズを受けた。それはまるで、ハリウッドスター同士の結婚のようだった。

(当時)ジョンの調査スタッフ プリシラ・マクミラン「披露パーティの席で、ジョンは私にこう言いました。結婚したのは、世間体を考えたからさ。37にもなって独身だと、変人だと思われそうだからね。でもそういう間も、彼の目は向かい側のジャクリーヌに吸い寄せられたままだったんです。」

ジャクリーヌは結婚後初めて、夫の病気について知らされた。

ケネディ家の伝記作家 ドリス・カーンズ「ケネディ家の人々は、ジョンの病気をひた隠しに隠しました。弱くてもろいというイメージが、政治家として損だと考えたからです。薬の厄介になりながら、ジョンはいつも、頑健さを装っていました。スポーツで日焼けした肌は、彼の隠れ蓑みたいなものでした。」

だが、しだいに隠し通せないほど病状は進行した。1954年、激しい背中の痛みで歩けなくなったジョンは、椎間板の融合手術を受けることにした。アジソン病を併せ持つ彼にとって、それは生命の危険を伴う賭けだった。ジョンが昏睡状態に陥ったとき、父親のジョーゼフは失意のどん底で、次男との別れを覚悟した。

ジョンの再始動

ジョンは、賭けに勝った。そして自分の人生が、まだ開かれていることを実感した。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「突然、彼は行動的になりました。突然、民主党の未来を一手に引き受けるような人間になったのです。彼は生まれ変わったように熱心に遊説をし始めました。そして演説の準備のため、今までおろそかにしてきた議題に、猛烈に取り組みました。」

経済学者 J・K・ガルブレイス「私たちの学習は三段階を経ました。始めのころはジョンが質問して私が答えました。次には、彼が自分の見解を述べ、私が補足しました。だがその次になると、私が何も言わなくても、彼は十分に理解していました。」

1956年、ジョンは、新しい著作「勇気ある人々」の出版によってケネディの名を売り込み始めた。

ジョン・ケネディ「勇気ある人は、選挙民の期待に背いてでも国家に尽くします。」

この著書がベストセラーとなったことで、ジョンは党のライバルたちに、大きく溝を開けた。そして同じ年の民主党大会では、彼は司会役を務めた。

ジョン・ケネディ「次期民主党候補、そして――次期大統領となるべき、我らがスティーブンソンです。」

スティーブンソンは、副大統領の指名を、党大会に一任した。

(当時)下院議員 ジョージ・スマザーズ「ケネディは頼みがあると決まって、ねえ、親友、って呼びかけるんです。それを聞くたびに、やれやれ、次は何だって思いました。あの時も夜中に電話してきて、僕を副大統領候補に推薦してくれって言いだしたんです。」

副大統領候補を目指すジョンに対して、父ジョーゼフは反対した。今は手を出すな、スティーブンソンは負け犬だ。ジョンは初めて、父親の忠告を無視した。ケネディは快調に票を集めたが、土壇場でライバルのキーフォーバーに追い抜かれてしまった。

ジョン・ケネディ「キーフォーバー氏の指名が承認されることを望みます。」

それは、ジョンの生涯において、最初で最後の敗北宣言となった。

(当時)ジョンの補佐役 テッド・ソレンセン「あの指名争いのおかげで、彼は一躍有名人になりました。それ以降、全国各地から演説を依頼されるようになったんです。指名争いに敗れたことも、結果的にはプラスに働きました。もし副大統領候補になっていたら、あの後の民主党の大敗で、ケネディは責任を問われたでしょう。」

敗北の苦さを味わったこの年、ジョンの心に本物の野心が芽生えた。政治家としての階段を上ることは、もはや父のためではないと彼は感じるようになった。一回り頼もしくなった息子に、父は言った。よし、大統領になる計画を立てよう。

疑惑

ジョンの著書、「勇気ある人々」は、ピューリツァー賞の栄誉を得た。だがその直後、ある噂が広まった。この本の真の著者は、ケネディの補佐役テッド・ソレンセンだというのである。

(当時)ジョンの顧問 クラーク・クリフォード「ジョンは、全く不愉快だと言いました。上院議員としての品格を損なう、悪質な中傷だというのです。対策を話し合っているとオフィスの電話が鳴りました。かけてきたのは彼の父で、いきなりこう切り出しました。クラークかい、噂を広めた奴を訴えろ、いいな。名誉棄損で5,000万ドルだ。彼は私の返事など聞こうともしませんでした。努力しますと答え電話を切ると、ジョンは私に向かって言いました。親父がまた何か難題を持ちかけたようだね。」

父ジョーゼフは、テレビ局に圧力をかけ、一連の噂の報道について謝罪させた。

(当時)ジョンの補佐役 テッド・ソレンセン「『勇気ある人々』の著者は、ジョン・F・ケネディです。私ではありません。著者とは、すなわち活字の背後に立ち、全責任を取る人のことなんです。本に対する批判を受けて立つのも著者です。下調べや草稿を手伝った人間がいようが、関係ありません。」

理想の家族像の陰で

1958年、ジョンは、上院議員の2期目の選挙を、大統領選に打って出るための前哨戦と考えた。

ジョン・ケネディ「私の家族をご紹介できて、光栄です。」

母 ローズ「ジャクリーヌ、選挙運動はどうでした?」

ジャクリーヌ「とても楽しかったですわ。ジョンと共に全国を回り、大勢の方にお会いしました。義弟のエドワードも協力してくれて、週末には一緒に回りました。」

母 ローズ「よかったわね。ジョンは幸せ者ね。良い妻に恵まれて。」

41歳になるジョンは、圧倒的な支持を得て再選された。そのころ、雑誌を飾ったケネディ上院議員の家族写真は、アメリカの理想の家庭像を思わせた。だが、円満な家庭像の裏側には、いびつな実像が潜んでいたのである。

(当時)ジョンの調査スタッフ プリシラ・マクミラン「いつだったか、彼にこう聞いたことがあります。これから大統領選に向けて戦おうというときに、なぜよその女と出歩くような危険な真似をするの。すると彼は、私の顔をしばらく見つめてからこう言ったんです。どうしても自分を抑えられない。」

伝記作家 ドリス・カーンズ「夫が絶えず周囲の女と付き合い、ときには妻と出かけたパーティで、別の女といなくなったりするんですから、ジャクリーヌは辛かったでしょう。」

(当時)ジョンの調査スタッフ プリシラ・マクミラン「ジョンは私生活でも、いろんな顔を演じ分けていたと思います。結婚生活で見せる顔と、ケネディ一族で見せる顔は、まるで違いました。では何が彼の人格の核になっていたかというと、私は野心じゃないかと思うんです。」

女優 ジュディス・キャンベル「彼が演説するのを見ていると、時折こう思います。彼は群衆の中のただ一人を見つめ、微笑みかけているんじゃないかって。実際にそういうことが多かったんです。ジョンはいつも、そういった小さなたくらみを隠していました。」

1960年に、ジョンは女優のジュディス・キャンベルと知り合った。二人を引き合わせたのは、フランク・シナトラだった。シナトラは、当時ハリウッドを中心に一家を成していた。

義理の弟で俳優のピーター・ローフォードがその一人であったことから、ジョンはシナトラ一家と付き合うようになっていた。

キャンベルはジョンの愛人の一人となるが、彼女の背後には、サム・ジアンカーナという暗黒街のボスがいた。こうして、闇の世界とジョン・F・ケネディの間に、一本の黒い糸が結ばれた。

女優 ジュディス・キャンベル「ジョンは無謀な人でした。私との関係にしても、進んで首を突っ込みたがるような、そんな感じを受けました。ジョンはよく大統領選に誰が出馬しそうかを、熱心にしゃべりました。まるでその一つ一つが、ケネディ家全体の大事件といったふうにです。大統領職は、一種のトロフィーで、ジョンはそれを一族、とりわけ父親に捧げようとしていたのでしょう。」

大統領選への立候補

1960年1月2日。ジョン・F・ケネディは大統領選への立候補を正式に表明した。アイルランド系カトリックの大統領を目指す、厳しい戦いがついに始まった。

党の指名を獲得するには、まず11の予備選挙を勝ち取らねばならない。選挙参謀を任されたのは、今や政界の事情通に成長した、弟ロバートであった。

ロバート・ケネディ「残念ながら、今夜は母は来られません。姉のパットもユーニスも妹のジーンもいませんし、義兄と弟のエドワードもいません。というわけで――僕で我慢してください。」

ロバートは、兄のようなスマートさは持ち合わせていなかったが、兄よりはるかに信仰心が篤く、また、努力家だった。マッカーシーのもとで上院調査委員会に加わったころから、彼は独特の粘り強さと猛烈ぶりを示し始めた。容赦ない攻撃は多くの敵を作った。その力を、今度は、兄の大統領選で発揮することになったのである。

ケネディ家の友人 レッド・フェイ「ロバートは、兄をも容赦しませんでした。ジョン、なにをしてるんだ。運動は始めてるのか?組織は整ったのか?今日はどこ行くんだ?今後の方針もまだ決めてないじゃないか。ジョンは私に、この先、6か月もこの調子だぜ、と耳打ちしました。」

ジョンの兄弟たちが果敢に前線に乗り込んでいったのに比べ、父親のジョーゼフは、ほとんど人前に出なかった。世間が、ケネディ大使の敗北主義と、反ユダヤ主義を忘れない限り、彼は沈黙する以外になかった。その代わり、彼はその財力にものを言わせた。

粉石けんのようにジョンを売りまくれ、とジョーゼフは指示した。ケネディ陣営の猛烈な宣伝攻勢は、ライバル候補たちに脅威を与え始めた。

ハンフリー候補「私が個人商店だとしたら――ケネディはチェーンストアだ。」

「『ハンフリーをよろしく』と言ったところで――かなわんね。」

だが、ケネディ側も、とりわけ、プロテスタントの多い地域で苦戦を強いられた。

市民「ケネディ議員。宗教問題が国民を混乱させる危険をどう解決されますか?」

ジョン・ケネディ「私としては――お静かにどうぞ。私が目指しているのは、憲法の下に強い力を持つ大統領です。大統領は、すべての国民の利益を考えねばなりません。憲法が説く政治と宗教の分離を、私は強く支持します。それが我が国にとって、最良の策と信じます。」

ケネディが振りまいたのは、笑顔だけではなかった。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「こんな話もありました。フォードというシカゴの男が、ウェストバージニア州にやってきて、初対面の保安官にこう切り出したのです。俺はシカゴから来たんだが、それというのもケネディの若造が気に入ったからなんだ。あいつは国の役に立つ男だ。で、今ここに8,000ドル持ってきた。これでやつのために、裏工作してくれ。あとで礼はたんまり払うぜ。そんな具合に、大金がばらまかれたのです。」

選挙戦の闇

FBIは、ケネディの周辺に暗黒街の匂いをかぎ取っていた。シカゴのギャングのボス、サム・ジアンカーナは、女優のジュディス・キャンベルを介して予備選挙の裏工作に加わったとされる。

女優 ジュディス・キャンベル「ジョンからワシントンに来てくれと言われたとき、私は何か恐ろしい役目を負わされるんだと直感しました。ジョンは私に、大金の入った鞄を預けました。そしてこれをシカゴのジアンカーナに届けてほしいと言ったのです。シカゴまでは列車を使いました。ジアンカーナは駅まで迎えに来ていて、一言も言わずに私から鞄を受け取りました。二人の男の間に、密約が交わされていたのは確かです。」

キャンベルの証言を裏付ける証拠はない。予備選挙の裏工作に関する真実は、30年以上経った今も謎に包まれている。

民主党大会

ケネディは11の予備選挙をことごとく勝ち、勢いに乗って7月の民主党大会へ臨んだ。指名獲得への本当の勝負はこれからである。最大のライバルは党の院内総務を務めるリンドン・ジョンソン上院議員だった。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「ジョンソンは言いました。君はケネディ派だったね。正確には、あの若造、と呼んでいました。そして、こう続けたのです。忠誠心はいいもんだが、しょせんあの若造に勝ち目はない。二回目の投票では、私についてくれないか。私は言いました。二回目などありません。ケネディは一回目の投票で過半数を抑えるつもりです。あなたは一家の底力を甘く見すぎている。」

選挙参謀のロバートは、会場を駆け回って票読みを繰り返した。勝ちを決めるには、761票が必要だった。

開票者「ニューメキシコ州は、ジョンソンに13票投じました。ケネディは4票です。」

過半数に届くかどうかはきわどかった。ロバートは、ワイオミング州が持つ15票に鍵があるとにらんだ。

四男 上院議員 エドワード・ケネディ「兄に言われて、ワイオミングの議長と掛け合いました。ケネディの命運はここにかかっています。あと4票を、ケネディのほうに振り向けてください。相手は、ばかな、10.5票も約束したのにもっとだなんて、と呆れ、本当に4票が決め手なのかとたずねました。本当です、となお粘ると、ようやく、よしやってみよう、と言ってくれたのです。」

ロバートの読みは正確だった。ワイオミング州の投票の直前、ケネディは、勝利まであと11票に迫っていた。

「ワイオミング!ついにケネディが過半数を獲得しました。」

ワイオミング州は、15票の全てをケネディに投じた。民主党の、若き大統領候補が進み出た。会場に父親の姿はなかった。72歳の高齢には刺激が強すぎるというのが、表向きの理由だった。

大統領決戦

ケネディは、南部の票を抑えるために、ライバルだったジョンソンを副大統領候補に指名した。最後に戦う相手は、共和党のリチャード・ニクソンであった。ケネディは、ここ数年でアメリカがソビエトに後れを取ったとして、共和党へ鋭い非難を浴びせた。

ジョン・ケネディ「言い訳はたくさんだ。アメリカに必要なのは、『もし』や『しかし』などの議論ではなく、実行です。」

(当時)ジョンの顧問 J・K・ガルブレイス「外交政策、特に冷戦に対して彼が打ち出した好戦的なトーンは、私としてはあまり好ましいとは思えませんでした。国内政策についても、体裁はいいが中身はいまひとつでした。それでも、相手のニクソンよりは上手かったと思います。」

ケネディは、ソビエトに対する核戦力の立ち遅れを強調した。

(当時)ジョンの顧問 アーサー・シュレジンジャー「1960年の選挙当時は、誰もがそう信じていました。ミサイルギャップなどないとわかったのは、あとのことです。」

有権者の興味を最も引いたのは、二人の候補者によるテレビ討論だった。第一回目の当日、ニクソンは、運悪く足に怪我をしていた。それに対していつもは病気がちのケネディは、これまでになくはつらつとして見えた。新しい薬による治療が、功を奏したのである。視聴者の軍配は、ケネディに上がった。

決戦の日が来た。全国を駆け回っていたケネディの一族は、マサチューセッツ州ハイアニスポートにある父親の別荘に、続々と集まって来た。

「夜明け前に現時点での開票状況を確認しましょう。大統領選挙の国民投票は、今のところケネディが70万票差でリードしています。両者きわどい接戦です。」

長い一日だった。今世紀最大の接戦は、全国民を開票速報にくぎ付けにした。その夜、アメリカは一睡もしなかった。最後の瞬間、わずか1%の差で、運命の女神はジョン・F・ケネディに味方した。

勝利宣言の会場に、彼はそれまで人前に出なかった父親を伴った。父ジョーゼフは、公には控えめな態度を保った。だが、組閣人事が始まると、再び陰で采配を振るい、三男のロバートを司法長官にするよう命じた。

(当時)ジョンの顧問 クラーク・クリフォード「父親を説き伏せるために、私は理論武装しました。司法長官の役割を歴史的に説き起こし、次に司法が行政に及ぼす影響力を説明しました。そして、今回の選挙で、ロバートが果たした功績を称え、その上でこう言ったのです。あなたのご提案は大きな誤りです。組閣は成功させねばなりません。彼は礼儀正しく耳を傾けていました。そして愉快そうにこう言いました。ありがとうクラーク。興味深い話だった。君の説明はとても分かりやすいね。そして、一言付け加えたのです。ロバート・ケネディを合衆国司法長官の座に就かせる。」

ジョン・ケネディ「司法長官たる者は、法を守る戦いの先頭に立ち、公正かつ誠実に法を遂行しなければなりません。その適任者としてロバートを選びました。祖国のため、困難な任務を引き受けた彼に感謝します。」

大統領就任式の前日、ワシントンに珍しく大雪が降った。白いベールは、首都に幻想的な輝きを添えた。この天気で、予定されていた前夜祭は3時間遅れとなった。

伝記作家 ドリス・カーンズ「カトリック教徒のケネディ家には、儀式を重んじる傾向がありました。またアメリカ国民も、新大統領を迎える時は、盛大に祝うのが好きです。ジョンはまるで王様のようでした。父親のジョーゼフにはハリウッドでの経験があり、イメージ操作や派手なショーアップはお手の物でした。」

四男 上院議員 エドワード・ケネディ「前夜祭の帰り、父と私の乗った車が雪で止まってしまいましてね。父は外に出て、雪まみれになりながら、車を押し始めたんです。明日息子が大統領になる人とは思えない姿でした。次の朝、晴れ渡り、空気はきりりと引き締まっていました。」

寒さの中、72歳のジョーゼフ・ケネディは、万感の思いを噛み締めていた。20年前に打ち砕かれた彼の野望が、今、彼の次男によって達成されたのである。

就任演説

四男 上院議員 エドワード・ケネディ「兄はその一週間ほど前に、マサチューセッツの州議会で演説を行っていました。その出来があまりによかったので、就任式の前の晩に、父はこう言いました。ジョン、お前はボストンで演説の力を使い果たしちまったんじゃないかい。明日の演説で、アメリカ中をうならせることができるのか。すると兄はこう答えました。できると思うよ。父さん。」

ジョン・ケネディ「今この時、この場所から、友にも敵にも伝えたい言葉があります。アメリカは新しい世代に引き継がれました。今世紀生まれの世代は、戦争と苦い平和によって鍛えられてきました。私たちには、誇りとする古き遺産があります。それはこの国に育まれた人間の権利です。先人が守り抜いた遺産を、私たちもまた守り、そして、世界へ広めていきましょう。」

研ぎ澄まされた彼の一言一句はアメリカ全土にこだまし、若者たちにしびれるような興奮を呼び起こした。

「今問われるのは――祖国があなたのために何をなすかではなく、あなたが祖国のために何をなすかです。」

[話]伝記作家 ドリス・カーンズ「大統領のパレードを、両親(註:ジョンの両親、ジョーゼフとローズ)は来賓席で見ていました。妹のユーニスもそのそばにいたんですが、彼女は父親のジョーゼフが帽子を取って振るのを目にしました。父親が子供に、帽子を脱いであいさつしたのは、これが初めてのことでした。彼は、大統領となった息子に敬意を表したんです。そのとき、ジョンも立ち上がって帽子を取ったんです。パレードで彼が帽子を取った相手は、父親だけでした。ジョンはこう言いたかったんでしょう。私がここまで来られたのは、あなたのおかげです。ありがとう。父さん。」

「その日、一家はホワイトハウスへ移りましたが、みんなのはしゃぎようは、まるで子供でした。大統領一家になった実感がわかず、どこかの別荘にでも来た気分だったのでしょう。

四男 上院議員 エドワード・ケネディ「ジョンと友人が大統領執務室に足を踏み入れたとき、守衛が向こうから怒鳴ったんです。おい小僧たち、出ていけ。そこは大統領の執務室だぞ。」

若さの落とし穴

大統領は43歳。そして彼の側近たちにも、若さと行動力がみなぎっていた。なすべきことは山のようにあった。市民権の擁護、教育や福祉の充実。

そして外交面では、資本主義のリーダーシップをとり、東側の攻撃を受けて立とうとしていた。夢は叶えられる。ケネディたちは確信した。

(当時)JFKの側近 アーサー・シュレジンジャー「楽しい時代でした。みな張り切り、夢を抱き、世界を変えられると思っていました。」

(当時)JFKの側近 リチャード・グッドウィン「どのような難題にも、挑んでみせようと思いました。冷めた人たちもいましたが、私たちは彼についていったんです。」

(当時)JFKの顧問 クラーク・クリフォード「私は次第に、彼とその周りには、時代を読み取る感覚が欠けていると思い始めました。自分たちが国を動かし、世界をも動かしている。そんな巨大な自己満足に浸っているようでした。だが実際は、俗な言い方をすれば、まだ右も左もわかっちゃいなかったんです。」

(当時)JFKの顧問 テッド・ソレンセン「就任直後は、酔ったような陶酔感がありました。何人もの強敵を破った。自分には魔力がある。間違いなど起きるわけがない。それは危険な落とし穴でした。」

〔第2回 ジョンの魔力〕

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