ジョン・F・ケネディ大統領物語

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ケネディ家 野望と権力の系譜 第1章 ~大いなる挑戦の始まり~

プロローグ

ケネディ家は、たぐいまれなる一族であった。彼らは、戦士の集団のように力を合わせ、一族から大統領を出すという目的に突き進んでいった。

ジョン・F・ケネディ「大統領候補として立つことを宣言します。」

ロバート・ケネディ「大統領候補として立つことを宣言します。」

エドワード・ケネディ「大統領選への立候補を、正式に宣言します。」

一族の進むべき方向を定めたのは、のちに大統領の父親となるジョーゼフ・ケネディであった。だが、運命の女神に自らの野望を誓ったとき、ジョーゼフは、その代償がいかに高くつくかを知らなかった。彼の9人の子供たちは、運命の前に、いわば人質として差し出されたのである。

〔制作 テムズTV(英)、WGBH(米)――1992年――〕

〔ケネディ家・野望と権力の系譜(原題:THE Kennedys)〕

大いなる挑戦の始まり

1938年は、ケネディ家の運命を左右する分岐点だった。この年49歳のジョーゼフ・ケネディは駐英アメリカ大使としてイギリスに降り立った。一代で巨万の富を蓄え、駐英大使という名誉を得たジョーゼフはさらなる目標を、大統領の座に置いた。こうして、ケネディ家の歴史の第二章が始まる。そこに至るまでに、ジョーゼフは半生を費やしていた。

ジョーゼフは1888年、ボストンのアイルランド系カトリックの家庭に生まれた。父親は地元のアイルランド系社会ではかなりの実力者だった。その父を見ながら育ったジョーゼフは、人の上に立つことを早くから意識し、猛烈な競争心と努力によってハーバード大学に進んだ。野球部時代、彼はベンチを温める補欠に過ぎなかったが、たまたまイェール大学との試合に出場すると、キャッチしたウィニングボールを誰にも渡さなかったという。階級意識の強い大学の空気は、アイルランド系の彼には冷たかった。彼はこう確信した。ものをいうのは金だ。

卒業後の彼は、実業界の門をたたいた。わずか数年のうちに、彼は二つの目覚ましい成果を手に入れる。一つは小さな銀行の頭取の座。もうひとつは同じアイルランド系の市長の娘、ローズとの結婚である。

伝記作家 ドリス・カーンズ「ジョーゼフにとって、ローズを妻に迎えられたことは願ってもない幸運だったでしょう。魅力的な娘だったことはもちろん、ローズは何一つ不足のない、いわゆる良家の御嬢さんでした。市長である父親とともに、野球場では最前列で観戦しましたし、一緒に海外へ出かけることもありました。取り巻きに囲まれた誇り高いローズは、自信家のジョーゼフにも、はじめは高嶺たかねの花だったんです。」

ローズの父親、ジョン・フィッツジェラルドは、ボストンでは初めてのアイルランド系の市長だった。その人脈は、のちのちまで、ケネディ家の財産となった。

上院議員 エドワード・ケネディ「祖父はボストンを中心に、広い人脈を持っていました。ケネディ家の人間が、みんなマサチューセッツ州に強い地盤を築き得たのは、突き詰めれば母と祖父、この二人のおかげなのです。」

1914年の秋、ジョーゼフとローズはカトリック教会で挙式し、郊外に新居を構えた。間もなくローズは、最初の子供を身ごもった。

ウォール街での成功

一家を構えたジョーゼフは、ニューヨークへと勝負に出た。彼は、35歳までに100万長者になると決めていた。1920年代のウォール街は、株で一発儲けようという連中がひしめき合っていた。ジョーゼフは、市場操作や、法すれすれの大胆なやり方で、業界にのし上がっていった。ジョーゼフは、危険な商売にも手を染めた。禁酒法の時代には、酒の密輸で巨額の利益を得たと言われている。それは、闇の組織とのつながりを生んだ。

ローズは、夫が何で儲けているかほとんど知らなかった。ジョーゼフは、家庭と仕事をはっきりと隔てていたのである。長男のジョーゼフ・ジュニアは、小さいころから家族の自慢の種だった。市長のフィッツジェラルドは、この子は将来大統領になる、と言った。

祖父の名前を貰った次男のジョンは、生まれたときから病弱だった。そして、長女のローズマリーはほかの子に比べ発育が遅く、周囲を心配させた。続いて次女、三女が生まれ、ケネディ家は6年間に5人の子供を得た。ローズは、家族のことに追われる毎日だった。

ハリウッドへ

1926年、ジョーゼフは、映画産業の都、ハリウッドに進出する。彼の狙いは名作を手掛けることではなく、宣伝だけは派手な、低予算の映画を量産する事だった。彼のビジネスは当たった。ハリウッドで、ジョーゼフが引き当てたものがもう一つあった。人気女優グロリア・スワンソンとの刺激的なロマンスである。

ケネディ家の伝記作家 ドリス・カーンズ「グロリア・スワンソンの官能的な魅力に、ジョーゼフは参ってしまったのです。彼女は、貞淑な妻のローズとは正反対の女性でした。華やかなドレスをまとい、男を誘惑し、何度も夫を変えた人気女優との情事は、男の征服欲を満たすには最高のゲームだったのでしょう。」

スワンソンにのめり込むあまり、ジョーゼフは彼女を主役にした大作、ケリー女王の制作を命じた。それは、彼の唯一の失敗作となった。映画の失敗とともに、二人のロマンスは終わった。しかし、いったん口火を切った彼の派手な女性関係は、その後も延々と続いた。

伝記作家 ドリス・カーンズ「ローズはおそらく、夫の浮気の一部始終を知っていたと思います。でも、表面的には知らぬふりで押し通しました。家庭を守るためです。そして、ジョーゼフも家庭を壊すつもりはありませんでした。」

家庭

確かにジョーゼフはいつも帰ってきたが、それは妻のもとにではなく、子供たちのいる家にであった。子供たちは水泳や、ヨットや、フットボールに時間を存分に与えられたが、両親と過ごす時間は少なかった。

伝記作家 ナイジェル・ハミルトン「妻がいると夫が出かけ、夫が戻ると妻が出かける。その繰り返しです。子供たちがどんな気持ちでいたか、想像してみてください。乳母や家庭教師にばかり育てられ、ある意味では孤児同然だったのです。」

政界へ

1929年の初め、ジョーゼフは、暴騰を続ける株価市場に何か危険なものを感じ取った。仲間たちが買い続けるのを尻目に、彼は大幅な売りに出た。ジョーゼフの予感は的中し、10月には、史上最悪の株価大暴落が起きた。何万人もの投資家が破産したとき、彼は財産をさらに増やしていたのである。

アメリカは転換期に差し掛かったと彼は直感した。1930年代には、権力はウォール街からワシントンへ移行するだろう。そう彼は友人に話した。1932年、フランクリン・ルーズベルトが民主党の大統領候補に立つと、ジョーゼフは運動資金として20万ドルを提供した。その見返りとして、彼は将来の閣僚のポストを期待していた。

F・D・ルーズベルトの長男 ジェームズ・ルーズベルト「ジョーゼフ・ケネディの狙いは、政治権力を手に入れることの一点に尽きました。だからこそ、私の父が有望だと見てとると、父の力を利用するために、急速に近づいてきたのです。」

だが、ルーズベルトもまた、人当たりの良さの陰に、冷徹な計算を潜ませていた。彼は、ケネディを決して信用してはいなかった。

伝記作家 ドリス・カーンズ「結局のところケネディは、ルーズベルトには敵いませんでした。人を操ることにかけては、ルーズベルトのほうが何枚も上手でした。利用するつもりだったケネディは、逆に利用されたのです。」

雌伏

新政権の閣僚ポストは、なかなか回ってこなかった。大統領選の年には四男エドワードが生まれ、ケネディ家の子供は全部で9人になっていた。2年近くたった1934年7月、ようやくジョーゼフに与えられたのは、証券取引委員会の委員長という役目だった。株取引のからくりを知り尽くした彼が、皮肉にもウォール街の監査の役に抜擢されたのである。まるで狐に鳥小屋を見張らせるようなものだ、とマスコミは非難した。しかし、ルーズベルトの狙い通りケネディは、古巣であるウォール街を相手に辣腕を振るった。

1936年、ルーズベルトは再選に臨んだ。48歳のジョーゼフは、密かに政治的野心をたぎらせていたが、表向きはルーズベルトへの忠誠を誓っていた。その彼に、大統領はやはり報いようとはしなかった。海事委員会委員長(U.S. Maritime Commission Chairman)という地味なポストに回された彼は、次のチャンスを狙って自分を熱心に売り込み始めた。

ニュース映像のアナウンサー「ルーズベルト大統領は海事委員会の長として、J・P・ケネディを抜てきしました。実業界で鍛えられた敏腕は、必ずや成果を上げるでしょう。」

ジョーゼフ・ケネディ「実務に入る前に確認しておこう。まず何が必要か?いかにして得るか?……」

(当時)海事委員会 経済担当 ハーベイ・クレマー「広報宣伝にかけては、ジョーゼフ・ケネディは天才的でした。たとえば経済予測を提出するにしても、彼は国民の注目が十分集まるまで発表を伸ばしました。じらせるだけじらして、救世主のように登場するのです。」<海運業界に関するケネディ委員長の予測>

ニュース映像のアナウンサー「ケネディは報道陣を集め答申を発表しました。」

ジョーゼフ・ケネディ「2つの理由から商船の拡充を求めます。」

伝記作家 ドリス・カーンズ「ジョーゼフにとっては、何をなしたかよりも、人にどう評価されるかのほうがより重要でした。ですから、自分が貧しい家に生まれたとか、家庭的で働き者だとか、実際よりもかなり誇張して記事に書かせました。彼は早くからマスコミの力を認め、大衆の好むイメージに合わせることこそが、成功の秘訣だと見抜いたのです。」

ジョーゼフは、自分を扱った記事に目を光らせ、気に食わない部分には書き直しを要求した。健康的で善意にあふれた父親というイメージは、活字を通じてしだいに威力を放ち始める。だが、少なくとも子供たちに対する彼の愛情は、見せかけや偽りではなかった。

ジョーとジョン

伝記作家 ドリス・カーンズ「子供たちが外から帰って来たときや、何かに失敗したときなど、ジョーゼフはぎゅっと抱きしめてキスしました。そういう意味では、彼はローズよりも温かな愛情を子供に注いでいました。」

ジョーゼフは、自分が学生時代にアイルランド系として一段低く扱われたことを忘れなかった。そして、息子たちがハーバードの門をくぐると、いわゆる上流階級の子弟に負けないよう、助力を惜しまなかった。法律と政治を学ぶ長男のジョーは、父の期待を一身に背負っていた。

ケネディ兄弟の師 J・K・ガルブレイス(ハーバード大)「ジョーは誰からも好かれる生徒でした。勉強熱心で、社会問題に関心を持ち、発想がとても豊かでした。ですから、自然とリーダー的な存在になったのです。その点、弟のジョンは兄とは対照的です。彼は学内一の社交家で、学業よりは人生を楽しむことの方に重きを置くタイプでした。」

父親として、ジョーゼフは次男のことが気がかりだった。ジョンは読書家でウィットに富んでいたが、物事に真正面から取り組むことを嫌った。皮肉屋で道化者というのが、ジョンに対する周囲の評価だった。

伝記作家 ナイジェル・ハミルトン「ジョンの悩みは、自分に日が当たらないことでした。優秀な兄の陰にいつも隠されてしまうのです。そうした不満から、彼は反抗的な学生になり、一時は危うく退学させられるところでした。しかし反抗の裏側で、ジョンは悩んでいました。おどけ者のだめな弟ではなく、確かな評価を得たかったのです。」

病弱であることも、ジョンの弱みだった。彼は生まれつき片方の足が少し短く、また、原因不明の背中の痛みに、始終苦しめられていた。誰からも前途を嘱望される兄に比べ、ジョンは、この先長く生きられるかどうかさえ、危ぶまれていたのだった。

駐英大使として

1937年の終わりごろ、ジョーゼフのたゆまぬ自己宣伝が功を奏し始める。ある人気投票では、彼はルーズベルトの後継者として5位にランクされていた。さらなる上昇への好機が到来した。ジョーゼフが要求したのは、イギリス駐在大使の座だった。ルーズベルト大統領も、これまでのジョーゼフに対する借りを、そろそろ返しておくべきだと判断した。

1938年2月、ジョーゼフ・ケネディは、喜びをかみしめながらアメリカを発った。出発前、親しい友は忠告した。駐英大使は大使の中でも、最も手腕を要求される任務だ。経験のない君は、よほど気をつけないと足をすくわれる。ケネディは、それを軽く聞き流した。

ニュース映像のアナウンサー「新しい駐英大使ケネディは、任地で大歓迎を受けました。人々の関心の的は、彼の9人の子供たちです。ケネディは記者の質問攻めに遭いました。」

ジョーゼフ・ケネディ「イギリスの住宅問題を刺激しないよう、子供は分割式で運びます。5人、2人、2人…とね。」

ニュース映像のアナウンサー「分割式の第一弾は、美しい夫人と18歳から6歳までの5人。ロバートが出発前の感想を語ります。」

ロバート・ケネディ「興奮して眠れませんでした。」

ケネディ大使と家族は、ロンドンの社交界に迎え入れられた。大使は、アメリカ本国の上流階級の連中を見返した気分でいた。子供たちは社交界でのびのびと振る舞い、なかでも快活な次女のキャスリーンは、周りに愛された。

デヴォンシャー侯爵「ケネディ家はロンドンの話題をさらいました。特にジョンとジョーとキャスリーンの三人は、たちまち社交界の人気者となったのです。彼らには花がありました。キャスリーンの生き生きした表情を見ていると、男性はみな、恋に似た気持ちを抱いたものです。」

着任早々、ケネディ大使はさばききれないほどの外交問題に直面させられた。ヨーロッパの政情は、不穏さを日毎に増していた。夏の終わり、ついにヒトラーはオーストリアに侵攻し、チェコスロバキアの一部を呑み込んだ。

ケネディが選択したのは、時のイギリス首相チェンバレンがとる、ドイツへの融和政策だった。彼は、取引次第で、民主主義はナチズムと共存できると考えた。そして、何よりも戦争の回避を訴えた。

ジョーゼフ・ケネディ「経済の混乱と戦争の双方を、何としても回避せねばなりません。」

しかし彼は、ナチスドイツに対する、周囲の人道的な反感を完全に見落としていた。

(当時)駐英アメリカ大使館員 ハーベイ・クレマー「私はドイツへ調査に赴き、現地で見たことを彼に報告しました。ユダヤ人政策に触れたとき、彼はこう言ったのです。もともと自分たちが蒔いた種で、ユダヤ人のほうに責任があるんだ。」

1939年9月、ヒトラーのポーランド侵略を境に、イギリスは全面戦争に踏み切った。ジョー、キャスリーン、ジョン。ケネディ家の年上の兄弟は、未知の危険が降りかかりつつあるのを、父とともに感じ取っていた。しかし、戦争はケネディ家にどのような犠牲を強いるか、彼らも、そして、父ジョーゼフも、まだ知らなかった。

ニュース映像のアナウンサー「大砲で武装したイギリス商船アキティニア号が、ニューヨークへ入港。乗客には、ケネディ夫人と3人の子供も含まれています。」

大使は家族を帰国させ、一人ロンドンに残った。しかし、融和政策を支持した彼は、しだいに本国からも疎んじられるようになった。ルーズベルト大統領は大使を無視して、新しいイギリス首相チャーチルと直接交渉を開始した。

「チャーチルは、ジョーゼフ・ケネディを嫌っていました。アメリカの援助や参戦を求める上で、大使が障害となったからです。チャーチルは、ジョーゼフのことを融和派の敗北主義者で、ヒトラーを支持しかねない腰抜けだとみなしていました。」

ロンドンの空襲が始まると、ケネディは真っ先に郊外に避難した。

デヴォンシャー侯爵「ドイツ軍の空襲が始まったとき、大使は一人でさっさと非難したのです。立ち向かおうという気概を全く感じさせない彼の態度に、私たちは反発を覚えました。」

1940年10月、ケネディは急きょ帰国した。彼は、アメリカの参戦に警告を発するつもりだった。

ジョーゼフ・ケネディ「大統領に会うまで何も言えません。」

その夜、ルーズベルト大統領は、ケネディ夫妻をホワイトハウスに招いた。再び大統領選に挑もうとするルーズベルトは、ケネディの立場に一応の理解を示し、彼から支援を取り付けるのに成功した。

ジョーゼフ・ケネディ「この国の運命に――妻と私は9人の人質を委ねています。私たちや皆さんの子供は、何より大切な宝です。子孫のためにアメリカの将来を真剣に考えるべきです。そうした観点から、私はF・D・ルーズベルトを、大統領に再選すべきだと信じます。」

しかしその一週間後、彼がもらしたドイツの攻撃に対する弱腰な発言が、新聞に大きく取りざたされた。“大使は発言する。民主主義はイギリスで滅んだ。そして、おそらくこの国でも滅ぶ。” 釈明の余地はなかった。敗北主義者の烙印を押されたジョーゼフは、1941年2月、野望半ばにして辞意を表明した。52歳だった。

ローズマリーの秘密

1941年の夏、アメリカ合衆国と、ケネディの息子たちが戦争に巻き込まれるのは時間の問題だった。

ケネディ家の友人 エリザベス・キャベンディッシュ「あそこの兄弟は、どんなときも張り合わずにはいられないみたいでした。ケネディ家の子供は勝つために育てられ、遊びでさえ、真剣そのものだったんです。」

敗北者はいらない。ケネディ家の人間は泣かないのだ、と父は子供たちに言い聞かせていた。

ジョンの友人 ウィリアム・ウォルトン「ジョーゼフが子供たちに果たした役割は、普通の父親よりずっと大きかったと思います。どんなに忙しくても家にいる時間を確保しました。雇い人に指示したり、食事の献立を考えたりという一家の切り盛りも、夫人のローズより、ジョーゼフのほうが熱心でした。」

公職を退いたジョーゼフは、打ち砕かれた自らの野心を、長男のジョーに託すことにした。ジョーもまた、父の絶大な期待に応えようと決心する。

いっぽう次男のジョンは、まだ進路を決めかねていた。だがしだいに興味は外交政治に傾いていく。それを知った父は、ジョンの卒業論文、『なぜイギリスは眠ったか』を出版させ、世間に次男の存在をアピールした。

ジョンの友人 チャールズ・スポルディング「ジョンは床に座って、山と積まれた著書に片っ端からサインしていました。親父のおかげで売れ行きが良くてね、と彼は冗談めかして言いました。」

このころジョーゼフは、一人の子供について、ある重大な決断を下した。知能の発達が遅れていた長女のローズマリーに、脳手術を行ったのである。

(当時)駐英アメリカ大使館員 ペイジ・ウィルソン「一家はみな、ローズマリーに親切で、決して邪魔になどしませんでした。たぶん、家族の間でさえ競争心の激しい彼らにとって、ローズマリーだけは、別世界の人だったんでしょう。」

ローズ・ケネディ「あの子の外出には付き添いが必要でした。急に家に帰りたくないと言い出したりしますし、だれかにさらわれないかと心配でした。」

伝記作家 ドリス・カーンズ「普通よりも遅い思春期がローズマリーにも訪れ、それが問題を引き起こしたんです。兄弟のように振る舞えないという不満や劣等感が、急に怒りや暴力となって現れ出しました。

ちょうどそのころ、ロボトミーという手術法がジョーゼフの耳に入りました。未来への不安を感じる脳の一部を切り取れば、彼は、娘がより幸せになるのではと考えたんです。手術は取り返しのつかない悲劇をローズマリーの身にもたらしました。彼女は、二度と口がきけなくなったんです。驚いたのは、この手術をするとき、ジョーゼフがローズに一言も相談しなかったことです。」

ジョーゼフは、この事実を一家の秘密として、生涯隠し通した。

開戦 兄弟たちの運命

1941年12月7日(註:アメリカ時間)、日本軍の真珠湾攻撃によって、アメリカは戦闘に突入した。それは、ジョーゼフ・ケネディが最も恐れた事態だった。ジョーもジョンもそろって海軍に志願した。ジョーは父の反対を押し切って航空隊の士官候補生となった。弟のジョンは、体が弱いため、ワシントンで情報活動に従事した。ジョンはそこで、インガ・アーバドという年上のジャーナリストと恋に落ちる。当時彼女には、ナチの情報部員の疑いがかけられていた。FBIがジョンとインガの会話を盗聴したことから、二人の関係が明るみに出、大問題となる。思わぬ失態を演じて海上勤務へ転属させられたジョンは、魚雷挺PT109に乗り込んだ。このPT109は、日本の駆逐艦に体当たりを受けて沈没、ジョンはこのとき、傷ついた仲間をロープでつなぎ、16時間漂ったのちに生還した。この事件で、彼は軍人としての評判を一気に高めた。

赤十字の看護婦となったキャスリーンは、ロンドンにわたって恋をした。相手は、イギリスの侯爵、ハーティントン卿である。だが二人の結婚には宗教上の障害があった。ハーティントンの家系がプロテスタントであるため、カトリック信者の母ローズ・ケネディは娘の結婚を許さなかった。挙式の日、母は娘に、胸が張り裂けそうですという電報を送った。父のジョーゼフも表向きは許さなかったが、こっそり、お前はいつまでも私の秘蔵っ子だ、という電報を送った。結局挙式に参列したのは、兄のジョーひとりであった。

ジョーは、ヨーロッパでパイロットの任務をいったん降りた。だが彼は、弟のような華々しい手柄を立てるべく、さらにある秘密の任務に志願する。それは、爆弾を満載した飛行機でドイツ軍基地に突っ込み、自らはパラシュートで脱出するという危険な任務であった。出発前、ジョーは友人にこう言った。もしものことがあったら、父さんに、愛していると伝えてくれ。飛行機は空中で爆発し、ジョーは、帰らぬ人となった。

ジョンの始動

戦争が終わったとき、ジョンは自分がこれから何をなすべきか迷っていた。だが、兄のジョー亡きいま、父の期待が自分に回ってくることだけは明らかだった。

伝記作家 ドリス・カーンズ「一般には、ジョーが死んだ途端、父親が次男のジョンに、さあ、次はお前だ、と言ったとされています。でも、それは話を作りすぎです。そのころジョンは、父親が絶望にさいなまれる姿を見て、何とか力になりたいと思い、ずいぶん苦しんだんです。」

1946年、ジョンは、兄が立つはずだった下院議員への出馬を決意した。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「あんな痩せぎすの青白い青年が、ボストンの代議士になれるなんて、まるで想像もできせんでした。選挙運動に入ってからも、内心勝ち目はないとみていました。」

(当時)ジョンの選挙参謀 ビリー・サットン「ジョンはそれまで、自分の選挙区を見たこともありませんでした。そこは母親と祖父が生まれ育った場所で、彼自身にとっては見知らぬ土地も同然だったんです。」

(当時)ジョンの秘書 デイブ・パワーズ「毎朝6時に彼と待ち合わせ、選挙キャンペーンを開始しました。とにかく顔を売るために彼はそこいらじゅうの人と握手をし、私は、ケネディの名前のついたバッジを配りました。」

(当時)ジョンの選挙参謀 ビリー・サットン「ところが、いざ始めてみると、ジョンの才能が輝きだしました。まるで催眠術師のように、彼は自分の話に、相手を引きこんでしまうのです。とりわけ女性たちときたら、話をするうちに、ジョンと結婚したくなってしまうようでした。

朝から晩まで方々を回りました。夜の9時も過ぎると、さすがにへとへとです。でも私が、今日はもうあと一か所ですと言うと、彼は深いため息をついてから、さあ、行こう、と言ったものです。」

ジョンは、病弱な体と戦いながら、長い選挙運動をやりぬいた。あとは、父ジョーゼフの采配にかかっていた。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「選挙運動では、最大の武器は金です。ジョーゼフ・ケネディは、金の力を誰よりも知り尽くしており、ジョンの選挙キャンペーンの一切を、陰で取り仕切りました。金は政治の母乳のようなものです。奇跡を呼ぶことさえできるのです。」

伝記作家 ドリス・カーンズ「ジョーゼフは息子に政治家としての資質を認め、売り込みに拍車をかけました。自分の過去の経験から、成功するには宣伝が重要なカギだと考えたんです。ジョンは、株などと同じ、一種の商品でした。必要なのは、彼のイメージを大衆が求める政治家像に近づけていくことなんです。」

(当時)下院議員 ティップ・オニール「ダイレクトメールも6種類準備しました。全て封書です。あの時代に宣伝に葉書でなく封書を使うなんて、ほかの候補者には真似できない贅沢なやり方でした。」

(当時)ジョンの広報担当 ジョン・ガルヴィン「ジョーゼフ・ケネディには、金で動かせない相手などなく、必要な人はみな、味方にできたのです。」

(当時)ジョンの選挙参謀 ビリー・サットン「ケネディ イコール金であり、権力でした。」

ジョーゼフは、ジョンの対立候補者につけ入る隙を残さなかった。

(当時)ジョンのマネージャー マーク・ダルトン「みんな驚いたことに、選挙当日の立候補者名簿には、ジョーゼフ・ルーソーという人物が二人記載されていました。ジョーゼフ・ルーソーは、その地区のイタリア系住民に影響力を持つジョンの対抗馬でした。そこで父親は一計を案じ、有権者を混乱させるためにもう一人、同姓同名の男を名前だけ登録させたんです。もちろん、袖の下を十分に掴ませたうえでのことです。こうして、万が一の失敗も許さない構えで、ケネディ側は抜かりなく選挙に臨みました。ジョンの成功物語はここから始まったんです。」

アジソン病の発覚

わずか29歳のジョンは、圧倒的な勝利を飾って下院議員に選出された。ところがその9か月後、ロンドンのキャスリーンを訪ねた際に突然倒れた。

ケネディ家の友人 パメラ・ハリマン「急いで医者を呼び寄せましたが、原因が分からずジョンはロンドンの病院に運ばれました。そして精密検査の結果、初めて恐ろしい病気だと判明したのです。それは、アジソン病という、当時は治療方法が分かっていない難病でした。たぶん、あと一年くらいしか生きられないだろうと医者は家族に告げました。」

アジソン病とは、副腎機能に異常をきたし、身体が衰弱して、ときには死に至る病気である。ジョンは、自分の生命が残りわずかだと知った。そして小康状態に戻ると、短い人生を楽しむことに決めた。彼にとって、仕事は二の次となった。

(当時)下院議員 ティップ・オニール「正直なところ、当時のジョンは立派な議員だったとは言えません。彼に反感を抱く者も大勢いました。なぜって、彼は実力もないのに目立ったからです。重要な党議でケネディが演説すると、新聞はまるでそれまでの成果がジョン一人の功績であるかのように書きたてました。実際はスタッフが書いた原稿を読んだだけなのにです。」

キャスリーンの死

1948年春、ケネディ一家はそろって休暇を迎えた。キャスリーンもイギリスから帰国していた。彼女は夫を戦争で失っていたが、再び恋人ができたことを家族に告げに来たのだった。相手がまたもプロテスタントであることに母は激怒した。許しを貰えぬまま、ひと月後、キャスリーンは恋人のフィリッツ・ウィリアムと南フランスへ旅立った。

ケネディ家の友人 パメラ・ハリマン「私は飛行場まで一緒に行って、二人を見送りました。ダムという愛称の小型機でした。それが、キャスリーンとの最後の別れになったのです。二人を乗せた飛行機は、アルプス上空で乱気流に飲まれ、墜落しました。」

その翌朝、何も知らないジョンは、ワシントンの自宅で一人レコードに聞き入っていた。

(当時)ジョンの選挙参謀 ビリー・サットン「部屋には、ヘニアンの道という音楽が流れていました。電話で事故の報せを一番に受けたのは私でした。ジョンに報告しに行くと、彼は座ったまま、もう一度確認してから連絡してくれ、と言いました。それから数分間、彼は、この歌声はいいね、と言いながら、何事もなかったように振る舞いました。

やがて、遺体が確認されたという電話が入り、その瞬間彼の目は、涙でいっぱいになりました。ケネディ家の人間は泣かないと言われていますが、それは嘘です。私は確かに見ました。妹を失ったジョンの涙を。」

〔第1回 大いなる挑戦の始まり〕

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