古代文明の謎

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シュメール文明

謎の多いシュメール文明

文明の一大ブレイク

紀元前5000年ごろ、のちにメソポタミアと呼ばれるチグリス川とユーフラテス川に挟まれた沿岸地帯、現在のイラク南部にあたる地域に、ある農耕民族が住みついた。彼らの住みついた土地は耕作や放牧に適しており、付近の湿地帯は、魚類や鳥類を狩猟するのに適していた。

その農耕民族はウバイド人(先ー言語学的シュメール人)と呼ばれ、その後千年以上もそこに住み着き、泥でレンガを作って街や神殿を作り、その後のメソポタミア文明の基礎を築くこととなった。

ウバイド人の有能で進取的な気性は、ユーフラテス川沿岸地方を、中近東で最も繁栄した地帯に押し上げる。しかし彼らは文字を持たなかったため、言語による詳細な記録は残さなかった。

ところが、紀元前3800年ごろ、どこからかシュメール人と呼ばれる民族が渡来すると、その地方に劇的な変化が訪れた。メソポタミア文明は突如大繁栄し、確固たる政治体制が築かれる。彼らは美術、建築、宗教を発展させ、人類最古の文字である楔形文字を発明した。楔形文字は数万にも及ぶ粘土板に記述されており、現在でも多くの考古学者によって研究、翻訳が進められている。同様に、船や車輪付き戦車はも世界最古のものである。彼らは、エリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュといった都市国家を建設した。

古代メソポタミア文明は、世界最古の文明であるとされる。メソポタミアに生まれた文明は複数あり、それを総称して「メソポタミア文明」と呼ぶが、文明初期の中心となったのは、この民族系統が不明のシュメール人である。

進取的な文明

シュメール人には不明な点が多い。シュメール人の社会機構や風習が明らかになってきたのは、20世紀に入ってシュメールの都市国家の発掘が進んだおかげである。

イギリスの考古学者レオナード・ウーリーは、シュメールの首都であったウルを発掘し、大量の貴金属と宝石、精巧な装身具が出土した。同時に、さまざまな分野におけるシュメール人の業績が明らかとなった。

紀元前3800年ごろ、彼らは忽然と、優れた技術を携えてチグリス、ユーフラテス川河口沿岸付近に現れた。白内障を眼球の混濁部分を手術で切除し治療するなど、発達した外科的医療技術に代表される高度な医学、法体系、慣習があり、火の制御と利用に関する高度な技術や冶金術を持ち合わせ、スズと銅で青銅器を製造する技術があった。

進取的法体系が採用されており、議会は二院制で、復讐を認めず、労働者、失業者を保護する法律があり、裁判は陪審員制であった。

都市群の発掘調査

シュメール人は神聖国家ともいうべき社会機構を築いた。各都市の中心には階段ピラミッドであるジッグラトと呼ばれる巨大な建造物が存在した。ジッグラトは聖なる塔であり、その規模は、奥行き60メートル、幅45メートルほどの基底部を持つ3層構造である。地上20メートルの頂上に祭殿があり、それぞれの都市の主神がまつられた。

都市エリドゥでは地の神エンキ、都市ウルクでは神々の父アヌと豊穣の神イナンナ、都市ウルでは月の神ナンナが祀られた。ジッグラトは、王墓ではなく神を祀る建造物である点で、エジプトのピラミッドとは根本的に異なる。ジッグラトは、旧約聖書の「バベルの塔」のもとになったと考える者もいる。

王墓はジッグラトとは別に存在し、都市ウルの王墓には、武装した兵士や家臣たちが、隊列を組み戦車を従えたまま殉葬じゅんそうされた跡が見られた。また、王妃の王墓では、多くの侍女が正装し、楽器を携えた楽士達とともに、整然と殉葬されていた。彼らは、隊列を組み、儀式用の衣装と頭飾り、見事な金銀の装身具をまとい、パレードの最中に息絶えたかのような状態で土中に埋葬されていた。

ウーリーの発掘調査で、厚さ3メートルにも及ぶ粘土の層が広範囲に堆積した、大洪水の痕跡も発見された。年代は紀元前3500年ごろと推定され、ユーフラテス川河口一帯が洪水によって都市群が水没し、水位が長期間引かなかったことが明らかとなった。

紀元前3000年ごろの編纂されたと考えられている、古代メソポタミア文学作品「ギルガメシュ叙事詩」に大洪水の話が登場するが、これが創作ではなく、実際の史実に基づいたものであったことが証明されたのである。考古学者や文献学者の中には旧約聖書にこの物語の影響があると考える者もおり、特にノアの方舟のくだりは、ギルガメシュ叙事詩のなかの洪水伝説が元になっているとしている。このほかの旧約聖書の内容やギリシア神話にも、この物語が原型と考えられているものがある。

大洪水跡の発見にウーリーは興奮し、ロンドンに緊急電報を送っている。

さまざまなルーツ

シュメール人とはいかなる民族なのかも、謎に包まれている。シュメール人がどのような容姿で、どのような言葉を話し、どこから来たのかは、いまだに明らかにされていない。特に言語は系統が不明である。出土したシュメール人の男子をかたどったと思われる像は、大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌をした像もあり、民族系統は未だ謎である。シュメールの言語、文化、また、おそらくは外見も、周囲のセム系の民族とは異なっていた。

また、シュメール文明のもととなった文明の痕跡が見当たらないことが、謎を深めている。発掘が継続されても、それより前の文明の痕跡が見当たらない。

彼らは60進数の数学を確立し、これをもとにした暦を使用した。シュメールの暦は、月の満ち欠けで年月の経過を計る太陰暦で、世界最古のものであるが、きわめて正確なものであった。シュメール人は数百の天文用語を持ち、また、地球の地軸がわずかに円を描き、2万5920年に一回転する、歳差運動の周期を知っていた。彼らがなぜ、そこまで高度な天文学の知識を得るに至ったのかもまた、不明である。

こんにち、一日が24時間で1時間が60分、1分が60秒であるのも、シュメールの60進数の高度な数学に基づいたものである。

シュメールの首都ウルは紀元前2000年ごろ、現代のアラブ人の祖先にあたるセム族のアムル人に征服され、以後メソポタミア文明は、彼らアムル人によって受け継がれることとなった。首都ウルは、紀元前5000年前に農耕民族のウバイド人が住みついて以来、さまざまな民族の変遷を経て繁栄し続けた、メソポタミア文明でもたぐいまれな都市である。

シュメールの偉大な文化を受け継いだアムル人は、まもなくバビロン第一王朝を建国する。バビロン王ハンムラビは、「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典を策定するが、これは世界最古の記述された法、シュメールのウル・ナンム法典に次ぐものであった。

そのほか、1ダースが12個であること、1フィートが12インチであること、星座の横道十二宮、ギリシャ神話に登場する12柱の神々は、シュメール文明にルーツがある。

異星人であるという噂

シュメール文明から出土した粘土板には、上述の驚異的な天文学の知識、高度な医療技術、合金技術を「神々からの贈り物」とする記述がある。シュメールが歴史にこつ然と登場してから急激に発展した技術は、その後鉄器時代にいたるまで、革新的に発展したとは言えない。

また、「混ぜ合わされたもの」という表現で人間を表現しており、これが異星人と土着の未開の人類との交配により人間が造り出された、という解釈もできる。異星人と未開の人類の混血種が、現在のホモ・サピエンスである、という考え方である。

また出土した粘土板には、解釈が難しい中空に飛行物体に見えなくもない彫刻があるものもあるため、シュメール文明の数々の謎と相まって、シュメールが持っていた技術が異星人からもたらされたものなのではないか、という俗説が存在する。

また、シュメールの神話に登場する火を吐く船や空を飛ぶ神々、すべてを焼き尽くす大戦争の記述が、エジプト、インド、チベット、エスキモーなどの神話の中に共通して登場することも、この俗説の論拠となっている。

惑星ニビルとアヌンナキ

1976年、シュメール語の解釈に一石を投じる1冊の本が出版された。長年、シュメール語の研究を続けてきた、著者のゼガリア=シッチン博士によれば、シュメール文明の遺跡から発掘された粘土板には、驚くべき内容が記されていたという。

ゼガリア=シッチン博士

「シュメール人は高度に発達した天文学的知識を持っており、その知識は現在の我々を凌ぐほどのものであることが分かったのです。」

博士によって解読されたシュメール人の天文学的知識とは、このようなものである。

太古の昔、宇宙には、現在の太陽にあたるアプス、水星ムンム、金星ラハム、火星ラーム、ティアマトという星、木星キシャル、土星アンシャル、土星の衛星ガガ、天王星アヌ、海王星エアという9つの星があった。あるとき、海王星の引力にひかれ、ニビルという星が太陽系に迷い込み、土星に接触し、衛星ガガが、太陽系の隅に弾き飛ばされた。これが、現在の冥王星である。

その後、このニビルは、ティアマトという星に衝突する。この衝突でできた破片が現在の月になり、ティアマトは、太陽の方向に弾き飛ばされ、現在の地球となった。こうして太陽系は、現在の姿となった、というのである。

さらに、このニビルという星は、楕円形の軌道を描きながら、3600年という周期で太陽の周囲を公転する、太陽系第10番目の惑星であるという。そして、このニビルに住むアヌンナキという人々が、これらの天文学的知識をシュメール人に教えた、というのだ。

もし博士の解読が正しいものだとすれば、驚くべきことである。なぜなら、5000年も前に、シュメール人が肉眼では見えない惑星が太陽系に存在することを知っていたことになるからだ。

肉眼で見えない惑星とは、天王星(1781年発見)、海王星(1846年発見)、冥王星(1930年発見)であり、これらの星を人類が初めて発見したのは、天体望遠鏡が発明された、ごく最近のことなのだ。

しかし博士によれば、シュメール人は、これらの惑星についてまるでこの目で実際に見たかのような、正確な記録を残しているという。

たとえば、1986年に、惑星探査機ボイジャー2号が実際の天王星の映像を初めて撮影したが、シュメール人はこのこの天王星を、「水に満ちた、青緑色の星」と記録しているという。ボイジャー2号が撮影した写真は、まさにその通りであった。

また1989年に初めて撮影された海王星を、シュメール人は、「青緑色で、湖沼こしょうに満ちた星」という記録を残していたという。

シュメール人の生きていた5000年も昔に、惑星探査機が存在していたはずもない。つまり、シュメール人はドゴン族と同じように、地球上に存在するほかの文明から、天文学知識を与えられたとしか考えられないのである。

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ドゴン族

マリ共和国に現住する、農耕を営む民族。比較的近年発見されたシリウス星系が連星である事実と、土星に輪が存在し、木星に4つの衛星があることが、ドゴン族に伝承される神話のなかに含まれている、とする説がある。以下、Wikipedhiaより引用。

マルセル・グリオールはドゴン族の盲目の智者オゴトメリに取材した内容を元に、ジェルマン・ディータレンと共著で『スーダン原住民の伝承によるシリウス星系』を発表した。その研究論文では、天体の運行の秩序はシリウスの三連星のうち、宇宙で最も小さく、それでいて最も重いディジタリア星がもたらしたというドゴン族の神話を紹介している。ヨーロッパにおいてシリウスが連星であるとの説を最初に唱えたのはドイツの天文学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルで1844年のことであり、シリウスBの姿を最初に観測したのはアメリカの望遠鏡製作者アルヴァン・グラハム・クラークで1862年のことであるから、グリオールはドゴン族の宇宙に関する知識は西洋のそれと同様に高度であると訴えた。加えて、神話は木星には四つの衛星があると言及し、また土星にリングがあることを言い当てていると紹介している。

だが、グリオールの訴えは受け入れられなかった。グリオールがドゴン族と接触する前の1920年代に宣教師がドゴン族と接触している事実と、その当時は三連星説が主流であったことから疑念をもたれる。1915年にアメリカのウォルター・シドニー・アダムズがシリウスBのスペクトル撮影に成功してシリウスBが「小さく」「重い」白色矮星であることを証明しており、報道によってシリウスの連星は広く知られている素地もあった。また、シリウスが登場する神話はドゴン族の小さな集団にしかなく、シリウスの連星に触れる神話はグリオールの取り上げたオゴトメリのものしかなかった。さらにシリウスの連星に触れる神話の存在が確認されたのは1946年以降の調査のみであることから、1920年代以降に西洋からもたらされたシリウスの連星の情報が神話に取り入れられた可能性が高いと考えられている。その後もグリオールら人類学者、オーパーツへの興味を持つ者たちが神話の採集を続けたが、グリオールの考えを裏付ける新たな神話は見つかっていない。11年間、ドゴン族と生活を共にしたベルギーのワルター・ヴァン・ビーク、同じく10年間神話の採集をしたジャッキー・ボウジョは「存在しない」と結論づけている。[Wikipediaより]

これらの事実から、博士は確かに、地球外知的生命体アヌンナキが、シュメール人に高度な天文学的知識を与えた、というのだ。

しかし、シッチン博士のこの大胆な解釈は、あまりにも荒唐無稽であるため、当時、ほとんどの学者たちから完全に無視された。

ところが、最近の天体観測技術の発達により、これまで存在しないと言われていた太陽系第10番惑星、ニビルの存在を裏付けるかのような事実が発見されているのである。

1978年、アメリカ海軍天文台は、冥王星に、巨大な衛星、カロンが存在することを発見。カロンの動きから、冥王星の自転軸が、極端に傾いていることを明らかにした。

同天文台の天文学者、トーマス=ヴァン=フランダン博士は、太陽系にかつて未知の惑星が存在し、その惑星が冥王星に衝突し、自転軸を傾けたのではないかという仮説を発表した。

そして1996年には、アメリカ、ハーバード大学スミソニアン宇宙物理センター研究員、ジェーン=ルー博士らが、冥王星のはるか外側に、新天体を発見。「1996TL66」と命名した。この天体はまさに、シュメール人の伝説の惑星ニビルのように、楕円形の軌道を描きながら、およそ800年で太陽の周囲を公転していたのだ。

さらに驚くべき事実が明らかになった。1996年3月16日、NASAは、月は、火星ほどの大きさ天体が原始地球に衝突し、そこで弾き出された岩石の破片が集まってできたことが確実になったと発表したのだ。

まさに月は、惑星ニビルがティアマトに衝突してできたとする、シュメール人の天文学知識と一致したのである。しかし、果たしてこの話は事実なのだろうか。惑星物理学を研究する東京工業大学の井田茂博士に話を聞いた。

東京工業大学 理学部 地球惑星科学科助教授 井田茂博士

「NASAの発表は、ジャイアント・インパクト説を支持する、という結果です。」

ジャイアント・インパクト説。この説は、地球とある惑星が衝突して、その破片によって月が誕生したとする説である。博士らの研究グループが、理論上考えられる数値をすべてコンピュータに入力し、この説を再現してくれた。

まず、火星程度の大きさの天体が太陽系に飛来し、原始地球に衝突する。この大衝突でできた地球やその天体の岩石の破片が、地球の周囲に散らばる。岩石の破片は地球の引力に捉えられ、円盤状に広がり、地球の周囲を回転する。回転を続けるうち、いたるところで岩石同士が衝突を繰り返す。そのうちに、岩石が融合し、およそ1か月という短い期間で、確かに一つの月が出来上がるという。

現代の最新科学が導き出した結論として、確かに月は、地球に天体が衝突してできたことが確認されたのだ。とすれば、シュメール人の天文学知識の正しさが証明されたことになる。しかし、ここで一つの疑問が生じる。このジャイアント・インパクトが起こったのは、今からおよそ、46億年ほど前のことだという。このときには、地球上には、シュメール人はおろか、生命体自体が存在してないのだ。

つまり、ジャイアント・インパクトが起こったという事実は、人類が現在に至るまで知りえなかった事実なのである。ならば、なぜ5000年も前にシュメール人は知っていたのか。46億年前、地球に天体が衝突する様子を宇宙から観察し、のちにその事実をシュメール人に伝えた人物がいたのだろうか。

シュメールの伝説はこう語る。その人物こそ、太陽系第10番惑星ニビルに住む、地球外生命体、アヌンナキである、と。人類は、古代に地球外生命体と接触していたのか。

ゼカリア・シッチン博士とシュメールの円筒印章

ゼカリア・シッチン博士(Zecharie Sitchin 1922-2010)

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) を卒業。専攻は経済史。

古代宇宙飛行士説の提唱者。

「シュメール人の言葉に、注意深く耳を傾けることです。なぜなら、あちらこちらで繰り返し、語っているのです。自分たちに文明を教えたのは、天から地上へやってきた者たちだ、ということを。シュメール人はその者たちを、アヌンナキと呼んでいます。」

シュメール人が歴史を記したこのような粘土板が、半世紀にわたり、ベルリン博物館で眠っていました。この古代文字を解読した、数少ない人物の一人が、ゼカリア・シッチンです。

ゼカリア・シッチン博士

「シュメールの人々は、今から6000年前に、文字や絵を使って証拠の品々を残しました。ニビルという名の惑星からやってきた人々がいたことを、はっきり伝えています。絵の多くは、その人々を、非常に大きく描いています。平均的な人間の、少なくとも3倍、あるいはそれ以上の大きさです。つまり巨人です。」

ベルリン博物館にある、この円筒印章えんとういんしょう(写真左)は、実に不思議です。まず、太陽を中心に置き、その周りに惑星を並べて描かれた、太陽系(写真右)。ヨーロッパ人が300年ほど前、初めて知った配置です。冥王星も描かれていますが、この星が発見されたのは、1930年です。

さらにもう一つ惑星があります。これが、ニビルと呼ばれた星(写真左、白で強調した部分)で、ここから天の巨人、アヌンナキがやってきたと考えられていました。

絵を解説するゼカリア・シッチン博士

「ここに描かれている3人の人物を見てください。みな、大体同じ大きさに見えます。ですが、注意してよく見ると、この神として描かれた人物は、腰かけています。そこで、膝から腰までの長さを加えると、この人物の身長は、3メートルほどになります。天から地上に降り立った、巨人の一人です。」

デトロイト紙

地球外生物の証を求め、天文学者は、はるか遠くの宇宙を見つめてきました。しかしもっと近くを探すべきだったのかもしれません。この太陽系で、新しく謎の物体が発見されたのです。しかも、シュメール人が記した、アヌンナキの故郷、ニビルの近くで。それは、天から来た巨人の存在を信じる人たちにとっては、何よりの証拠です。

ゼカリア・シッチン博士

「人的資源、すなわち労働者が必要になって、遺伝子工学を利用して、進化が早められました。」

伝説によると、自分たちが行った品種改良の結果を見に、数千年後に戻ってきたアヌンナキは、地球の女たちを、大変魅力的に思ったといいます。

クリスマスツリーの起源

トルコのテレビ番組で、シュメール文明を研究する考古学者、ムアゼズ・イルミエチー女史のインタビュー番組より。
キャスター

先生――特にクリスマスの時期なので、ここに置いた木を、キリスト教の伝統であるクリスマスのためだと考える視聴者かたがほとんどだと思います。特にトルコのイスラム教色が強い人々は、このモミの木をキリスト教文化だと批判していますよね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

私たちも今までそのように考えていましたが、実際は、トルコ人の伝統であることが判明しました。

キャスター

なぜ、この木をここに置いたのでしょうか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

このクリスマスツリーが実は、トルコ人の伝統であることを皆に知ってもらいたいので、置きました。

キャスター

クリスマスツリーを初めて作ったのはトルコ人なのでしょうか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

はい。これは新たに発見されたことなんです。近年行われた、中央アジアのトルコ系の国々との共同調査により発見された事実です。

中央アジアのトルコ人たちの神話に、地上から天空まで伸びる木があります。この木の名前は生命の木。この生命の木の話は、シュメールにもあります。この木の枝の先には天の神、ウルゲンが住んでいます。

さて、トルコ人にとって太陽は神聖なものです。しかし神としてはあがめられていませんでした。とても神聖ですが。

12月22日に、再び太陽は地球をより強く照らし始めます。つまり、日が長くなり始めるのです。トルコ人に信じられていた神は、昼と夜を支配していると考えられていました。昼と夜は常に競っていましたが、12月22日に昼が夜に勝ちます。つまり、12月22日に日が長くなり始めるので、トルコ人たちはこの日に“新生の祭り”を行っていたようです。

12月22日にトルコ人たちは、中央アジアだけに生える白モミの木を切り、家に持って帰ったようです。その日の夜に天の神、ウルゲンへその年がよく過ごせ、豊作だったことへ感謝を伝えるために、モミの木の根元にプレゼントを置いたそうです。モミの木の枝へも、次の年へのさまざまな願いを込めて、布切れやリボンを結んだそうです。

その時期に大きなお祭りを行っていたようです。家族一同集まり、老人の家へ訪問していたようです。また、綺麗な服を着て、特別な料理を作ったようです。太陽の再誕の日として認められていました。

この伝統はトルコ人たちが西へ、ヨーロッパへ移住していくなかで、引き継がれていったようです。

キャスター

つまりクリスマスとは関係がないことになりますね?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

その通りです。しかし西暦325年に行われたイズニック宗教会議で、パガニズムの伝統であったこのしきたりを、太陽のようにあがめられていたキリストの誕生日に行おうと決められたようです。

ただ、16世紀までクリスマスツリーは飾られていませんでした。初めてドイツ人たちがクリスマスツリーを始めたようです。その後フランス人たちへ、そしてそのほかの地域へ広まったようです。

キャスター

ギョヌルテキン先生がこの番組に来られたときに、彼女はクリスマスツリーがシュメールの伝統だとおっしゃっていましたが。

ムラット氏

シュメールではありません。ギョヌルテキン先生は、2月のことについて語られたと思います。つまりドムズィ(タンムーズ)の再誕について。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

シュメール神話のなかにはありません。

世界最古の文明 シュメール

キャスター

先生、歴史はシュメールで始まると言われていますが、なぜシュメールなのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

なぜならば、歴史に関する記録文書をシュメール人が初めて残したからです。

キャスター

シュメールの前にはないのでしょうか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

ありません。シュメール人は文字を世界で初めて作り、その文字をあらゆる面で使用しました。また、記録文書として残しました。ですから、歴史はシュメールで始まるのです。

ムラット氏

粘土板についておっしゃっているんでしょうか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

その通りです。

ムラット氏

先生は、その粘土板を読むことができますか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

読める限り、読めます。

ムラット氏

先生、トルコの博物館には、粘土板はいくつありますか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

私たちの博物館――イスタンブール考古学博物館――では、74,000枚の粘土板に番号をつけ、整理しました。これらのなかには、シュメール粘土板、アッカド粘土板、アースル粘土板、ヒッタイト粘土板もあります。ヒッタイトは数少ないですが。アースル粘土板もシュメール語で書かれています。大部分は、シュメール粘土板です。

キャスター

74,000枚の粘土板があるのですね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

はい、すべてではありませんが、大部分はシュメールのものです。

ムラット氏

どこで発見されたのでしょうか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

イラクのさまざまな地域で発見されました。イラクにニップルという都市がありました。この都市は重要で、シュメール時代からキリストが生きていた時代まで存在していました。

この都市があった場所から、現在でもシュメール時代からキリストが生きていた時代までの記録文書が発見されています。

キャスター

シュメール人はいつごろ存在していたのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

紀元前4000年ごろに誕生したようです。つまり現在より、6000年ほど昔のことになります。紀元前3200年ごろに、文字を書き始めたようです。

時代が進むにつれて、文字も発達していきました。最終的には、何についても書き残すことができたようです。ですから、歴史はシュメールで始まるといっていいと思います。

キャスター

シュメール人が住んでいたのはメソポタミア地域、つまり現在のイラクがある地域ですね?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

イラク南部へ定住したようです。

キャスター

どこから来たのでしょう。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

何人かの海外の歴史家は、シュメール人は中央アジアから来たと言っていました。なぜなら、中央アジアの言語と似通った部分があるからです。

最近は、中央アジアから来たということを隠そうとする傾向があります。なぜかはわかりませんが、あるドイツの歴史家が本を発刊しました。彼はシュメール人がどこから来たのか、どの言語に近いのか全く分からない、と書いています。さらに、現在存在する、もしくは消滅したどの言語にも、類似点はないと言っています。

キャスター

トルコ語との類似点は?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

とても似ていると思います。何人かの学者は、この類似点から中央アジアから来たと言っています。ですから、ケマル・アタチュルクは、シュメールを大切にしました。彼は、フランス語で書かれた本で初めてその事実を知りました。(彼が読んだ)その本を、私もこの目で読みました。

その本には、シュメール人は中央アジアから来たかもしれない、言語はウラルアルタイ語系に近い、と書かれています。その文章にアタチュルクは“重要”と書いて線を引いていたようです。アタチュルクの時代には、そのように考えられていました。

キャスター

西洋諸国はシュメール文明が歴史の始まりであり、トルコ人と関係があることを認めたくなかったと考えられますね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

その通りです。しかしシュメール文明の発祥をどこにすべきか決めかねていました。なぜなら、西洋文明は自身の発祥をギリシャ文明だとしてきたからです。改めて歴史を書き換えたいと思っていないからです。海外を見ても、我々ほどシュメール文明を知っている者はいません。

キャスター

昨今、本当にシュメール文明を忘れさせようとしている雰囲気があります。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

そのことについてはわかりませんが、実際にシュメール文明を研究する研究家がかなり減っています。お金も儲かりませんし、情熱をもって研究する人々がいません。

ムラット氏

74,000枚の粘土板を整理されたとおっしゃいましたが、どのような内容なのでしょう。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

シュメール文学があります。ニップルコレクションから出たものです。世界にあるシュメール文学に関する粘土板の3分の1は我々の手元にあります。有名な考古学者、サムエル・クレメル博士がいらっしゃったとき、彼は粘土板を模写し、解読しました。博士は同時にその模写を、世界のシュメール考古学者たちへも送りました。

ムラット氏

クレメル先生とお知り合いなんですか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

もちろん。彼とともに研究をしました。

ムラット氏

ご存じのとおり、歴史はシュメールで始まる、との言葉は、クレメル博士が言った言葉です。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

11回、トルコへ来られました。

キャスター

サムエル・ノア・クレメル。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

彼とともに、シュメール文学発刊作業を終わらせました。それは大変光栄なことでした。

こんなこともありました。私が定年退職したとき、まだ解読できていないシュメール文学に関する粘土板がいくつかありました。私は色々と努力し、クレメル博士を呼びました。2か月、作業してもらったのです。そして、その小さな粘土板を解読してもらったのです。

私の友人に、ムスタファ・エレンさんという人がいました。解読のあと、最後の調査を彼がすることになっていましたが、彼も定年退職となってしまい、調査されないままになっていました。それでも、イスタンブール考古学博物館所有のシュメール文学に関する粘土板を、すべて整理発刊することができました。とても有意義なことだったと思います。

ムラット氏

先生、商業に関する書面もありますよね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

もちろんです。また、私たちの手元には、古代バビロニア時代の書面もあります。

キャスター

…先生、もしよければコマーシャルが入りますので、のちほどお話しください。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

15分間のコマーシャルでしょ?

キャスター

いえいえ、6~7分のコマーシャルとなります。その後は30分間連続の放映となります。

もし、隣のムラットさんに番組を任せてしまえば番組がごちゃごちゃになってしまいます。なぜならムラットさんは大変造詣が深いので、我々も彼ほど知識があると考えがちです。テレビの前の視聴者の方々も私も、わからなくなってしまいます。

ムラット氏

たはは…。

キャスター

シュメールと商業についてお話をうかがう前に、もっとシュメールについて教えていただきたいと思います。同じ年代にどんな民族がいたのか。ヒッタイト、もしくはエジプトとの関係は?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

エジプトに関しては、話さないほうがいいと思います。エジプトやヒッタイトは、シュメールよりもかなり後の時代の文明ですので。

キャスター

わかりました、コマーシャルに入ります。

神について

キャスター

先生、おっしゃられたように、シュメール文明は紀元前4000年に始まりました。最初の1000年は文字がなかったようですね。ではこの文明はいつごろ消滅したのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

紀元前1800年ごろに衰退し始めました。その後、バビロニア王のハムラビが登場しました。そして、シュメール文明は消滅したようです。

ムラット氏

シュメールはどのような政治形態だったのでしょう。共和制だったのでしょうか、それとも君主制だったのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

初めのころは地域地域に(点在して)定住したようです。それらの地域は、それぞれ城壁で囲まれていたようです。神々は同じでしたが、異なった神殿があり、それぞれに酋長しゅうちょう、もしくは王がいたようです。

言語や神々が同じであるにもかかわらず、それぞれの部族が勢力拡大のために戦争を常に起こしていたようです。時代の変遷のとともに、3つの王国に分かれた模様です。そして、第3ウル王国後に再び地域ごとの小国へと分裂したようです。そして紀元前1800年ごろに、これらの小国のなかでバビロニア国が優勢となっていったようです。そしてシュメール文明は、消滅したようです。

ムラット氏

先生、それぞれの国の宗教はどうでしたか。同じでしたか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

宗教は同じだったと言えます。

ムラット氏

神々は?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

神々は同じでしたが、名前が違うこともありました。

ムラット氏

いくつ神々がいたのでしょう。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

そうですね。15,000の神々がいたようです。神々のリストが粘土板に書かれています。しかし、重要な神は4人いました。この4人の神は創造神でした。ほかの神々はすべて、統治神でした。

すべての出来事に対し、それぞれの統治神がいたようです。古代トルコでも同じでした。驚くべきシステムを作っていました。この点を見ると、シュメール文明がとても優れていると考えられます。神々のシステム、家族のシステムがあり、すべてに法律がありました。

ムラット氏

先生、創造神は4人ですよね、それは誰なのでしょうか。イナンナ?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

イナンナではありません。大地の女神であるニンフルサッグ。空の神であるエンリル。天の神であるアン。水の神であるエア。これらが4人の創造神です。

イナンナはとても尻軽な女神です。この女神を天の神と呼ぶこともありますし、人々の女神と呼ぶこともあります。とても自己中心的な神です。ほぼすべての女神は歴史上から消え去りましたが、イナンナだけは残りました。

ムラット氏

なぜイナンナだけが?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

イナンナは愛と戦いの女神でした。人生のなかで、愛と戦いは重要だという事でしょうか。名前は変わっていったようですが、無くなることはありませんでした。私の考えでは、最終的には聖母マリアへ繋がっていったと思われます。なぜなら、イナンナの女神の特徴と聖母マリアの特徴がとても似通っているからです。

聖母マリアは女性たちの、そして天の守護神であるといわれています。私はこれをある記事で読みました。

キャスター

ということは、イナンナは最終的に聖母マリアになったのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

はい、そう思います。

キャスター

一神教に移り変わるときに、イナンナから聖母マリアへ変わった、ということですね。

ムラット氏

先生、ヴィーナスでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

ええ、そうですね。

キャスター

先生がおっしゃったメソポタミア、イラク南部で2つの川が合流した場所でシュメール文明が存在していた時代、ほかの中東地域、現在のトルコ中央アナトリア地域やインドで、文明は存在したのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

紀元前2500年ごろ、インドのインダス川地域にモヘンジョダロ・ハラッパ文明がありました。とてもとても重要です。彼らは文字も使用していました。短文だったため、またほかの言語に似通っていないため、依然として解読されていません。象形しょうけい文字です。

ムラット氏

どちらの文字が古いのです?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

シュメール文字のほうが古いですね。トルクメニスタン・アシガバートで石碑が発見されました。この石に書かれていた文字は、初期のシュメール文字と全く同じ文字でした。

また、その石にはモヘンジョダロ文明の文字も書かれていました。この事実はとても重要なことです。

私が考えるところでは、すべての文字はアジアが発祥です。アジアの文明は、とても興味深いものです。

キャスター

数学も、文字もアジアから。

数について

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

いかにも。話が変わりますが、ある研究が行われました。

キャスター

シュメール以前、数学はなかったのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

彼らは、数学を発展させた民族の一つです。

ムラット氏

シュメール以前にはなかったのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

7000年前のシュメールの時代の調査では、シュメール以前には数字は発見されませんでした。今までのところは発見されていませんが、今後発見されるかもしれません。

キャスター

数字で一番重要なものはゼロですが、シュメール人はゼロを知っていたのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

シュメールではゼロはありませんでした。ゼロの概念は、インド人が発見しました。ゼロがないにもかかわらず、とても実践的に数学を使用していました。6進数を使用していたようです。60、3,600、36,000。これらの数字をそれぞれ、一つの文字で表現していました。

キャスター

10進数ではなかった?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

それが、10進数も使用していたようなのです。10進数と6進数の両方を使用していました。6進数を発明したのはシュメール人です。ご存じのとおり、6進数は現在まで受け継がれています。たとえば度数、等級、時間などです。

キャスター

紀元前1800年ごろ、エジプト文明も同時に存在していたと思いますが…。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

私はエジプト文明研究者ではありませんので、はっきりしたことは言えません。しかし、エジプト文字がシュメール文字の影響を受けたであろうことは、よく言われていることです。ただ、反対に、エジプト文字がシュメール文字へ影響を与えたのだという学者もいます。

現在も議論は続いています。エジプト人は文字をパピルスに書きました。ですので、エジプト文明はシュメール文字ほど現存していません。

トルコにエジプトやエトルリア考古学研究所ができてもよかったと思いますが、残念ながらありません。アタチュルクの時代に設立された研究所以外には、ありません。

キャスター

先生、エトルリアとシュメール、どちらが古いですか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

もちろん、シュメールが古いです。エトルリア文明は紀元前6~8世紀に誕生しました。

キャスター

それ以前には無かったということですね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

存在しませんでした。しかし彼らは、トルコ人でした。

ムラット氏

私も同じ考えです。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

考えではなく、研究の結果、トルコ人であったことは明確です。たとえば、アーディレ・アイダン氏の本で書かれていることは、この事実を証明しています。ですから、エトルリア人は中央アジアから、さらに言うとトルコアナトリア地域を通って移住した、トルコ人グループなのです。

私が大学生の時代には、エトルリア人はイタリアへ北方から移住したと習いました。しかしイタリアの博物館を見学している際、ガイドのかたがエトルリア人は北方からではなく、アナトリアから来たと言いました。私はすぐにガイドへ近寄り、それはどの史実を根拠にしているのか、と聞きました。私は先生からそのように教わったと、彼女は答えました。これは1960年代のことです。実際に、DNAテストの結果、トルコ人であることが証明されています。

キャスター

トルコのアナトリア地方はどのような状況だったのでしょうか。ヒッタイト人との関係はどうだったのでしょう。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

その時代、アナトリアには多くの部族がいました。たとえばハッティアン人がいましたが、彼らは文字を使用しませんでした。アナトリアに多くの部族がいたということは、アッシュール人の貿易コロニーからも証明されます。アッシュール人の貿易コロニーは紀元前2000年ごろ、アナトリア地方でとても活発であったことがわかっています。ほかの地域は静かだったのにも関わらず、アナトリアはとても活発だったのです。

ムラット氏

どのような貿易を行っていたんですか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

とてもさまざまです。たとえば服、布。アナトリアからは石炭、銀、銅といった原材料が輸出されていました。また、それらを使った加工品がアナトリアへ再輸入されていました。

時代が経つにつれて、アッシュール人たちはとてつもない網のようなシステムを作り上げ、アナトリアを支配するようになりました。しかし、ヒッタイトの時代には外との貿易を認めませんでした。国産のものだけを使用、消費していたのです。これはとても興味深いことです。

アッシュール人たちはかなり賢い民族でした。彼らは外部から取り寄せた原材料を使用、加工しアトリエまで作っていたようです。そして、アトリエに飾っているものをヒッタイト人たちへ売っていたようです。

キャスター

外国資本のようなものですね。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

その通り、外国資本ですね。外から来た商人たちは決して、彼らの国の品々を売ることはできませんでした。とても良いことだとは思いませんか?とても興味深いことです。

ムラット氏

先生、チャタルホユックは最古の文明の一つといわれていますが、彼らは何者なのでしょうか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

何者か判明していません。ただ、チャタルホユックで発見された絵画にテントが描かれています。それは、中央アジアのテントと全く同じものです。絵画には、テントが車輪のついた乗り物で運ばれている様子も描かれています。そして、中央アジアにも全く同じ風習がありました。本当に似通っています。

それと、文字です。本当によく似ています。私は研究しませんでしたが、アナトリアにとってとても興味深いことです。ギョペグリテ遺跡はとても興味深いですね。昨今、古代文明の遺跡が次々と発見されています。新石器時代のものが発見されています。

ムラット氏

アラジャホユック遺跡が古いですか?それともチャタルホユック遺跡が古いですか?

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

ああ、アラジャホユックは新しいですよ。チャタルホユックのほうが、もちろん古いのです。アラジャホユックは紀元前2000年ごろの遺跡ですが、チャタルホユックは紀元前7000年ごろの遺跡です。紀元前5000年から7000年の間です。とても重要な事実です。

ムラット氏

依然として発掘は続いていますね。ここまで古いと、5000年も7000年も、我々には同じように感じられます。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

そうですね。アナトリアでの文明は、本当に古い時期から始まりました。私の考えでは、中央アジアから来たトルコ人が発祥だと思います。狂信的愛国主義者のように話したくはありませんが、手元にある各種の資料を見れば、明白な事実といえます。

しかし、ある学者たちはトルコアナトリア地域にはヒッタイト語のみ存在し、この言語はインド・ヨーロッパ系の言語であると説明しています。いま、ご存知かもしれませんが新しい言語が発見されました。クルガン語です。クルガン語はトルコ語です。古代トルコ語ですね。

シュメール語とトルコ語とが、単語の意味で比較対象されました。アナトリア・トルコ語の単語も多数あります。

ムラット氏

アナトリア・トルコ語がとても古い言語であることを証明していますね。たとえば、神という単語、ディンギル。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

そう、多くの単語があります。また、地名もそうです。

ムラット氏

シュメール人は自身をどのように呼んでいたのですか。

ムアゼズ・イルミエチー 考古学者

彼らは、自身をケンゲルと呼んでいました。

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