古代文明の謎

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古代マヤの文字を解読せよ

イントロダクション

マヤ文明。メキシコ南部から中央アメリカにかけて2000年以上にわたって栄えた文明です。マヤ文明は、複雑な絵文字を使っていました。さまざまな石碑や建造物、陶器、木の皮でできた書物などに、今も見ることができます。しかし、絵文字が一体何を意味しているのかは、長い間謎に包まれていました。何かのシンボルなのかも、どんな言語で書かれたのかも、わかっていませんでした。

「解読などとても無理だと、みな諦めてしまったんです。」

200年近くにわたり、さまざまな人が、マヤ文字の解読に情熱を注いできました。

「複雑な絵文字を、一つ一つ分解して読み解いていくしかありませんでした。」

何世紀もの時を超え、マヤ文字の謎が解き明かされます。

 

マヤ文明

16世紀。スペインは、アメリカ大陸に進出すると、マヤ文明を破壊していきました。その先頭に立ったのが、カトリックの修道士、ディエゴ・デ・ランダ。目的は、マヤの人々をカトリックに改宗させることでした。ランダは、邪悪な信仰とみなしたものを、手当たり次第破壊していきました。

「修道士であるランダは、マヤの書物を悪魔の道具とみなし、強硬な手段をとったんです。広場で、何百、何千というマヤの書物が焼き捨てられました。破壊をまぬがれて後世に残った書物は、たったの4冊。それも、一部だけでした。」

マヤの人々は、アルファベットを強制的に習わされました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「スペインによる征服後、マヤ文字を読み書きできる者はいなくなってしまいました。」

こうして滅ぼされたマヤ文字を、再び読めるようになるまでには、数百年の歳月が必要でした。

現在のマヤの人々

現在、中央アメリカのグアテマラに住むマヤの人々は、今も古代の神々に捧げ物をしています。農作業や商売、結婚など、人生のさまざまな問題について、神々からの助言を求めるためです。伝統を守り続けてきたマヤの人々。しかし、マヤ文字を読み書きすることはできません。そのマヤ文字を解読することで、いま、失われた歴史が蘇ろうとしています。

マヤ文明の歴史

碑文研究家 リンダ・シーリー「マヤ文字が物語る歴史は1500年以上、マヤの人々自身の言葉で記されたものです。」

マヤの人々は、メキシコ南部から中央アメリカにかけて、大昔から暮らしてきました。マヤ文明の中心は、グアテマラ高地とユカタン半島の間に位置する場所で、ほとんどがジャングルで覆われています。各地に大きな都市が建設されました。ティカル、コパン、パレンケです。都市にはピラミッドや神殿などの巨大建造物がそびえ立ち、王位継承の儀式や、戦士による命がけの競技などが催されました。

マヤ文明は、2000年以上も繁栄を続け、洗練されたものとなっていきました。

碑文研究家 リンダ・シーリー「マヤの人々の想像力と芸術性は、ほかに類を見ない、素晴らしいものです。」

ヨーロッパが中世に入ったころ、マヤ文明は絶頂期を迎えました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「アメリカ大陸では数少ない、文字を持つ社会でした。」

しかし9世紀に入ると都市は次第に衰退していきました。中心部にそびえていた神殿やピラミッドもジャングルに飲み込まれ、忘れ去られていきました。

遺跡の発見

それからおよそ1000年後、ホセ・カルデロンという探検家が、パレンケの遺跡を偶然発見します。見捨てられた神殿の内部で、カルデロンたちは、巨大な石板を見つけました。石板には、人の姿と絵文字が掘られていました。

碑文研究家 デヴィッド・スチュアート「彼らは石板に掘られたものが単なる絵ではなく、それ以上の意味があると気づいていました。」

他にも多くの遺跡が発見され、探検家たちは絵文字を書き写しましたが、正確なものではありませんでした。しかし、1880年代、イギリスの考古学者、アルフレッド・モーズリーがカメラを持ち込んだことで、状況は一変しました。写真によって、絵文字を正確に記録できるようになったのです。

モーズリーの写真にもとづき、マヤ文字の研究が本格化しました。いっぽう、スペイン人による焼却をまぬがれたマヤの書物も再発見され、解読が進められました。遺された4冊のうち、3冊はスペイン、フランス、メキシコにありましたが、最も詳細に描かれた一冊は、ドイツのドレスデン王立図書館にあり、ドレスデン絵文書と呼ばれるようになりました。

絵文書は、長い間存在を忘れられていましたが、1810年に出版された、アメリカ大陸に関する本にその一部が載せられたことで注目を集めました。見慣れぬ文字に強い関心を持ったのは、アメリカの博物学者、コンスタンティン・ラフィネスクでした。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「ラフィネスクは、そこに描かれた棒と丸を見て、一本の棒が5を表していることに気づきました。1は丸が1つ、2は2つ、3は3つ、4は4つ、5は棒、棒に丸が1つ付けば6、2つ付けば7。マヤの絵文字が初めて読み解かれた瞬間でした。こうして、解読が始まったんです。」

ドレスデン絵文書の解読をさらに進めたのは、図書館司書のアーネスト・フェルステマンでした。フェルステマンが見つけるまでの数十年間、絵文書は解読が進まぬまま、図書館の片隅に埋もれていました。

歴史学者 ジョージ・スチュアート「アメリカ大陸の歴史を語るうえで欠かせない、貴重な資料の実物が図書館の棚にあり、それを目の前に広げて研究できたなんて、すごいことです。」

フェルステマンは、マヤの人々が暦を持ち、天文学にも取り組んでいたことを解明しました。絵文書に、月食と日食の日が、正確に予測されていたのです。金星の周期を記した表までありました。フェルステマンの最大の功績は、マヤの暦の始まりの日を突き止めたことです。それは絵文書に記された、大きな数字でした。4 Ahauアハウ 8 Cumkuクムク。西暦に直すと、紀元前3114年8月13日になります。暦の始まりの日がわかったことで、石碑に記された年代を特定できるようになったのです。

 

J・エリック・トンプソンの説

マヤ文字の解読に、大きな役割を果たしたのが、イギリス出身の考古学者、J・エリック・トンプソンです。トンプソンは、800を超えるマヤの絵文字を細かく分類して番号を振り、整理していきました。トンプソンは、マヤの人々と一緒に暮らした経験があり、マヤの文化に深い敬意を払っていました。

歴史学者 ジョージ・スチュアート「トンプソンはマヤの人々を、世界中で最も優しい心の持ち主だと思っていました。いつも空を見上げ、天文学と暦に夢中だった人々、という印象を持っていたんです。」

トンプソンは、マヤ文字の解読の鍵は、時間とその経過を綴った石碑にあると考えました。石碑に描かれている人物は、神々や神官であり、絵文字は天の世界の神秘を記したものだと結論付けたのです。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「トンプソンは、マヤ文字は、歴史や物語ではなく、日付と天文学的な情報だけを記したものだと考えました。石碑の建設は、神々と交信するための行いだというのです。」

ほとんどの学者がトンプソンの説を受け入れ、マヤ文字は暦の日付以外、理解不能だと考えました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「解読など無理だと、みな諦めてしまったんです。まるで規則性が見当たらない、読み解ける者などいるはずがない、とね。」

タティアナ・プロスクリアコフの貢献

そうした見解を、一人の女性が覆します。タティアナ・プロスクリアコフは、建築家を目指してアメリカで勉強していましたが、大学を卒業した1930年は大恐慌の真っ最中で、就職先は見つかりませんでした。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「ある日彼女は、ペンシルベニア大学の博物館で、求人広告を見つけました。遺跡でスケッチや復元をする仕事で、その現場こそ、マヤの遺跡の中でもとくに重要な、ピエドラス・ネグラスだったのです。」

プロスクリアコフは、測量士としても、画家としても優秀でした。遺跡を描いた図面は極めて正確で、マヤの都市を見事に蘇らせるものでした。

考古学者 ウィリアム・ファッシュ「X線で建物の内部まで見通し、再現したかのようです。荒れ果てた神殿を見て、階段が何段あったかを推測し、上部の構造がどうなっているかを的確に描く才能がありました。」

プロスクリアコフは、男性が独占していた考古学の世界で、20年近く活躍し、1958年に現場を退きました。その後、ピーボディ考古学・民族学博物館に務め、地下室に保管されていたマヤに関する資料を研究し始めました。ピエドラス・ネグラスの遺跡で、自分が写した石碑の写真を見ていくうちに、プロスクリアコフはあるパターンに気付きました。

神殿の前に建てられた石碑は、5年に一本ずつ立てられたものです。石碑の中には、上部の窪みに腰かけた人物が掘られたものがありました。一番下の部分にはいけにえの姿があり、一本のはしごが、上の人物へと伸びています。プロスクリアコフは、この意味を解き明かしていきました。

どの石碑にも、奉納された日付が刻まれていますが、何本かの石碑には、それ以外に、不思議な日付が残されていました。そして日付のあとには、布を巻いた鳥の頭の絵文字が掘られていました。この文字は、いったい何を意味するのでしょうか。プロスクリアコフは、鳥の絵文字が掘られる12年前から31年前のどこかに、別の日付が刻まれているのを見つけました。一番早い日付のあとには、上を向いたイグアナの絵文字が掘られています。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「プロスクリアコフは、イグアナの絵文字は王の誕生、鳥の絵文字は、その人物が王位についた日を意味している。という仮説を立てました。彼女は、1本1本の石碑が、特定の支配者の一生を描いているのではないかと考えました。マヤの歴史が、初めて読み解かれたんです。」

1人の王の誕生から、次の王が即位するまでの期間に60年を超えるものはなく、当時の人間の寿命に相当します。プロスクリアコフの優れた洞察力によって、彫刻の意味は大きく変わりました。上部の窪みは王座で、描かれた人物は、神々や神官ではなく、王と王妃。一連の石碑には、王家の歴史が刻まれていたのです。

最初の王は、西暦603年に王座につき、5年後には戦いの装束と、捕虜の姿が刻まれています。15年後、2人目の王が王座につきます。まだ12歳で、隣には母親がいます。26歳で戦いの装束を身に着けます。

10年後、戦いの装束はより重々しいものになっています。この人物は、47年間、王として君臨しました。プロスクリアコフは、7人の王の物語を解き明かしていきました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「彼女は石碑の日付を整理して、出来事を順番に並べました。それを見た私は膝が震え、こう言いました。これは歴史的な大発見ですよ。」

碑文研究者 ピーター・マシューズ「彼女はマヤ研究の第一人者であるエリック・トンプソンに研究論文を見せました。最初は否定的だったトンプソンは、翌朝彼女を出迎えてこう言ったんです。間違いない。君の言うとおりだ。」

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「驚きました。トンプソンは、石碑が歴史を記したものだという考えに、長年反対していたからです。マヤ文字の研究は、大きく変化することになりました。」

マヤ文字は表音文字か、表語文字か

1945年5月。マヤ文字解読の歴史に、もう一つ大きな転機がありました。第二次世界大戦末期、ドイツのベルリンに進行した、ソビエト軍の中にユーリ・クノロゾフという若い将校がいました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「クノロゾフの話によれば、廃墟と化した国立図書館で、被害を免れた一冊の本を拾ったそうです。とても状態の良い白黒の復刻版の本で、マヤの絵文書に関する本でした。なかには、ドレスデン、マドリード、パリに保管された3つの絵文書が載っていました。」

解読不可能だと言われていたマヤ文字に、クノロゾフは惹きつけられました。彼は言語学の道に進み、エリック・トンプソンが第一人者として君臨していた、マヤ文字研究の分野で唯一のロシア人学者となったのです。

クノロゾフは、研究の第一波として、マヤ文字がいくつの記号から成り立っているかを数えました。ある文字体系が、100個以内の文字から成り立っていれば、表音文字とみなすことができます。さまざまなアルファベットやアラビア文字などが代表的な例です。いっぽう、記号がけた違いに多ければ、表語文字です。表語文字の代表は中国語で、何千という単語に対し、それに対応する漢字が存在しています。マヤ文字はおよそ800個。アルファベットのような表音文字にしては多過ぎ、漢字のような表語文字にしては、少なすぎます。そこで学者たちは、数百の単語だけを表す、限定的な表語文字だと考えました。

しかしクノロゾフは、書き言葉が必ずしも1種類の記号だけで成り立たないことを知っていました。英語にも、アルファベットのほかに、数字やパーセント、括弧かっこなどの記号が混じっています。マヤ文字は、表音文字と表語文字が混在したものではないかと、クノロゾフは考えました。その仮説にもとづいて、クノロゾフは絵文書を研究。東西南北を表す4つの文字はすでに判明していたので、まず西を表す絵文字を調べていきました。

西の文字は、二つの記号からできています。下は太陽を表す記号で、4枚の花びらのような形をしています。上に載っているのは手の記号で、親指と人差し指がくっついた形をしています。

エリック・トンプソンは、手の記号は完了を表すと考え、この絵文字は太陽の完了、日没。すなわち、西を意味すると解釈しました。トンプソンは、マヤ文字は概念を表すものであり、音を表わすものではないと考えていました。

歴史学者 ジョージ・スチュアート「その点に関して、トンプソンはとてもかたくなでした。絵文字が音を表すことは絶対にないという考えに、執着したんです。」

クノロゾフの意見は異なりました。マヤの絵文字は、話し言葉と密接な関係があると考えたのです。クノロゾフは、マヤ語で西を意味する単語が、「チキン」であり、太陽を意味する単語が「キン」だと知っていました。そこで、手の記号は「完了」という概念ではなく、「チ」という音節を表わす記号だと考えました。「チ」と「キン」で「チキン」。「西」になります。

しかし、クノロゾフの説には、不確かな点もあったため、トンプソンは、クノロゾフの説を真っ向から否定しました。そのため、クノロゾフの大発見は、欧米では完全に黙殺されてしまいました。

 

リンダとピーターの功績

しかし、世界各地で学者たちが、独自の研究をばらばらに行う時代は終わりを告げようとしていました。きっかけとなったのは、マール・グリーン・ロバートソンが主導した、パレンケでの調査でした。ロバートソンは、遺跡の発掘や記録に何年間も取り組んでいました。ある日、芸術学の教授、リンダ・シーリーが作業現場を訪れます。

碑文研究者 リンダ・シーリー「パレンケの遺跡を歩いてみて、芸術を中心とした文化が栄えていたことを実感しました。誰が何のために、どうやってこれらの芸術を作り出したのか、知りたくなったんです。」

シーリーは、ロバートソンの作業を手伝い始め、遺跡の隅々まで知り尽くすようになりました。1973年、シーリーは、研究者の会議で、オーストラリア人のピーター・マシューズと出会います。マシューズは、パレンケ遺跡の文字を解読する作業に携わり、ひと冬を過ごした経験がありました。

碑文研究者 ピーター・マシューズ「パレンケ遺跡の碑文を構成する全ての記号を、トンプソンの分類に従って整理しました。分厚いノートが3冊。びっしり埋め尽くされましたよ。」

シーリーとマシューズは、マヤ王朝の歴史を解き明かすため、協力し合うことになりました。二人は、パレンケの王族の名前に、称号を表す記号、「翼を持つ太陽」が付くものがあるのに気付きました。

碑文研究者 リンダ・シーリー「全ての碑文から、翼を持つ太陽の記号を見つけ出し、近くにある日付を書き留めていきました。」

二人は、翼を持つ太陽の記号がついた名前を、40以上発見しました。名前の近くには、必ず日付と、その日に起きた出来事が記されていました。たとえば、上を向いたイグアナの頭は、誕生を表します。誕生や死などを表わす文字を日付順に並べていくと、あるパターンが見え始め、やがて一人の王の存在が明らかになりました。二人は、シールド王と名付けました。シールド王は、西暦603年、3月13日生まれ。名前を表す文字には、兵士の盾が使われています。

それを足掛かりに、二人は、パレンケ最大の建造物である神殿の謎に挑みました。神殿の石板に刻まれた文字は、長い間謎でしたが、二人はそれが、シールド王の生涯について記したものだと突き止めたのです。これにより、1948年に発見された神殿の地下室が、再び注目を集めました。そこには、石の棺が置かれていました。棺の中には、翡翠ひすいの仮面をつけた人骨が収められていました。シーリーとマシューズは、この遺体こそ、シールド王に違いないと気づきました。このとき初めて、マヤ文字の記録と、マヤの王の遺体が結びついたのです。二人が解読した文字は、シールド王を含め、6人の王の生涯を綴ったものでした。

歴史学者 ジョージ・スチュアート「シーリーとマシューズは、大きな謎を解き明かしました。マヤの王たちの名前と当時の年代が、明らかになったのです。」

碑文研究者 リンダ・シーリー「最初は、シールド王など、英語の名前を付けていました。」

美術史研究家 ジレット・グリフィン「あるとき地元のガイドが、不満を訴えました。あなたたちは、なぜ大発見のたびに英語やスペイン語の名前付けるんですか。この王たちは、マヤ語を話していたのに、とね。」(註:右の写真 ガイド モイセス・モラレス)

それ以降、シールド王はマヤ語で盾を意味するパカル王と呼ばれるようになりました。

歴史学者 ジョージ・スチュアート「マヤ文明の研究にとって、大きな転機でした。あの感動は生涯忘れません。」

最大の難問 マヤ語の発音

長年の研究により、マヤ文字の完全な解読が現実味を帯びてきましたが、最後に大きな壁が立ちはだかっていました。発音です。マヤ文字を当時の発音で読むには、旧ソビエトのクノロゾフが進めていた研究を完成させなくてはなりません。数十年かかっても、明らかになった発音は、20数個にすぎませんでした。

マヤ文字の発音を解読する最後の鍵は、デヴィッド・スチュアートによって発見されます。デヴィッドは、歴史学者の、父ジョージの研究旅行にしばしば同行したため、幼いころからマヤ文明に親しんでいました。なかでも、デビッドの興味を引いたのは、メキシコのユカタン半島にある、コバ遺跡でした。

碑文研究者 デヴィッド・スチュアート「子どもの遊び場としては、天国のような場所でした。目の前で発見された、二つの記念碑には、特に夢中になりました。父は、碑文を模写することに夢中でした。父の肩越しに、記念碑を眺めていた僕も、これはすごいぞと思いました。」

歴史学者 ジョージ・スチュアート「デヴィッドは、自分でも模写をしようと思い、紙とクレヨンで、マヤの絵文字を書き始めました。」

碑文研究者 デヴィッド・スチュアート「アメリカに帰るころには、僕はコバ遺跡にすっかり心を奪われ、その後、何度も訪れることになりました。」

2年後、ジョージは、息子のデヴィッドを、リンダ・シーリーに引き合わせました。

碑文研究者 デヴィッド・スチュアート「研究室で、リンダはマヤ文字を書いていました。それを見て僕は、あ、それは火の文字だねと言ったんです。リンダは手をとめると、振り向いてこう言いました。そうよ、これは火を意味する文字。」

碑文研究者 リンダ・シーリー「ジョージは、息子のデヴィッドが、私のもとで研究できるようにしたかったんです。私はそれを受け入れて、夏に、パレンケの遺跡に連れて行くことにしました。」

「デヴィッドに、神殿の石板の模写を渡して、わかる範囲でいいから、意味を解読してみなさいと言いました。二日後に、あの子は答えを持ってきました。私が3年かけて解読した文章の構造を、理解していたの!あの子の才能は、本物だと解りました。」

デヴィッドは、わずか12歳で、マヤ文字に関する最初の研究論文を発表しました。

言語学者 キャサリン・ジョサランド「正真正銘のしっかりとした研究論文で、これまでにない見解も盛り込まれていました。多くの研究者は、ただ驚愕するばかりでした。」

高校卒業後、デヴィッド・スチュアートは、創造性豊かな人物に対して与えられる、マッカーサー・フェロー賞を18歳で受賞しました。俗に、天才賞とも呼ばれる、権威ある賞で、史上最年少での受賞でした。マヤ文字の解読に専念するため、大学進学を延期したデヴィッドは、ついに、大発見をします。

鍵となったのは、すでに解読されたと思われていた、対になった文字でした。マヤ文字を初めて分類したエリック・トンプソンは、このうちの一つは、日付を先に進めて数える、もうひとつは、日付をさかのぼって数える、という意味だと考えました。二つの文字の一部には、同じ記号が使われています。サメの頭の記号です。

マヤ語でサメは、「ショク」。ショクには、数える、という意味もあります。しかしデヴィッドは、サメの頭がほかの記号で代用される場合があることを発見しました。人間の頭。猿。括弧の形の記号。しかし、これらの記号がすべて、「数える」という意味を持っていたのでしょうか。

括弧の形の記号は、「ウ」という音節を表わす、表音文字です。デヴィッドは、これらの記号がすべて、「ウ」という音節を表わすことに気づきました。数えることとは無関係な文脈で、これらの記号が、括弧の記号の代わりに、何度も使われていたからです。

碑文研究者 ピーター・マシューズ「ある記号を、同じ音を持つ記号によって置き換える場合があったんです。発音は同じなのに、書かれる文字は違っていたということです。」

デヴィッドが注目した二つの文字は、次のような表音文字の組み合わせでした。i u tiティ u tiティ ya 。

マヤ語で、i utウット は「そしてその後それが起こった」、utiyウティイ は、「すでに起こった」、という意味です。

u という音を表わす記号はひとつではなく、複数あったのです。この発見から、ほかの音節を表わす記号も、複数あることがわかってきました。

碑文研究者 サイモン・マーティン「マヤ文字は、一つの音節を表わすのに、十数通りの書き方が存在します。それが、マヤ文字を複雑にしているんです。マヤの人々は、同じ文字の繰り返しを嫌い、別の文字に置き換えることを好みました。この法則がわかったことで、格段に解読がしやすくなりました。」

マヤの記録係は、さまざまな記号の中から、好きなものを選び、自由に組み合わせて文章を書いていました。抽象的な記号。人間や神の頭。一つの記号の中に、別の一つを組み込んだものや、二つの一部を重ね合わせたもの。二つの特徴を残して、融合させたもの。怪物の姿や、神の姿をした文字もありました。

 

碑文研究者 リンダ・シーリー「マヤ文字は、無数の組み合わせを自由に生み出すことのできる、高度な文字体系です。視覚的な豊かさには、圧倒されます。」

碑文研究者 デヴィッド・スチュアート「マヤ文字では、単に言葉を記録するだけでなく、芸術性と遊び心が重視されていました。だから、見た目は複雑です。でも、それぞれの文字を構成している記号の段階まで分解して調べていくと、ちゃんと意味が分かってくるんです。」

マヤの社会と文化

マヤ文字の解読が進むにつれ、マヤの社会や文化が急速に明らかになっていきました。ある文字は、誰かの所有物であることを表わしていました。u tuトゥ pau tupトゥプ は、彼の耳飾り。 u ba ki、 u bakバク は、彼の骨。ウ ラク は、彼の皿。ユチブ は、彼の壺。

考古学者 スティーブン・ヒューストン「これらの文字は、宮廷にとって、特に重要なものを示しています。貢ぎ物や、贈り物だったのでしょう。物を贈ることで、社会的な絆を強固にしたのです。」

言語学者/人類学者 バーバラ・マクラウド「マヤ文字を、書かれた当時と同じ発音で読めるなんて夢のようです。いくつかの文章については、この千年間で、私が初めて声を出して読む人間になるかもしれません。」

マヤの人々に対するイメージは、大きく変わることになりました。

考古学者 ウィリアム・ファッシュ「エリック・トンプソンの影響で、マヤの人々は、天文学や宗教を愛する、平和的なイメージがありました。しかし実際には、ほかの民族と同様、しばしば戦争を行って、捕虜の数を競っていました。最も価値のある自らの血を、神や祖先に捧げていたこともわかりました。」

この石碑に刻まれた儀式には、自己犠牲の重要さが表現されています。王家の女性が、自らの血を捧げ、幻の蛇を呼び出しています。女性は、アカエイの棘でとげ自分の舌を突き刺し、その穴に棘のある紐を通しています。

女性の前にある盆の中では、自分の血に浸した紙が燃やされています。立ち上る煙が、大蛇の姿となり、祖先の霊が現れます。上部には、儀式の説明が刻まれています。755年3月28日、カウイル神の化身である大蛇、ヤシュチットノフチャン、そして、祖先ヤシュヌーンアイーンの霊が、呼び出された。呼び出す、を意味する文字は、魚を掴む手の形をしています。

碑文研究者 デヴィッド・スチュアート「捉えどころのないものを掴む、ということです。あの世に手を差し入れ、何かをこの世に引きずり出す、という意味まで含まれています。」

絵文字と芸術は、マヤの人々の複雑な精神世界を表現していました。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「マヤの全体像が、把握できるようになりました。さまざまな遺物や文字から、人々が何をしたかわかるようになったのです。」

 

マヤの神話

マヤの人々が造った壺に、繰り返し描かれている神話があります。双子の兄弟が、冥界の王たちと戦い、天に昇っていく物語で、「ポポルブフ」と呼ばれています。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「兄弟は冥界の王たちと、ある球技で勝負をして負けたため、いけにえにされます。頭を切り落とされ、木に吊るされてしまうんです。そこに、冥界の王の娘が通りかかります。吊るされた頭は、娘の手に唾を吐きかけ、娘は子供を身ごもります。」

娘は冥界を去り、双子の兄弟を生みます。兄弟は戦士として成長すると、冥界に行き、王たちに戦いを挑みます。巧みな戦術で敵を翻弄した兄弟は、トウモロコシの神である父親の肉体を蘇らせ、地上の人々に食べ物を持ち帰ります。そして天に昇り、太陽と月になったのです。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「ポポルブフは、アメリカ大陸に伝わる最も重要な神話です。文学としても、極めて貴重な作品といってもいいでしょう。」

マヤの各地に存在した都市国家のあいだで、激しい勢力争いが起きていたことも、明らかになりました。3世紀から9世紀にかけて、いくつかの都市国家が、戦争を繰り返していたのです。

『マヤ文字解読』著者 マイケル・D・コウ「彫刻や碑文に血なまぐさい物語が記されています。マヤの人々の平和的なイメージは、間違いだったことがわかりました。」

マヤ文字がその様子を伝えています。チュク=捕らえる。フープ=都市を攻め落とす。プール=焼き払う。チャク=首を切る。

頭蓋骨は山をなし、血が池をつくっていた。という記述もあります。

コパンという都市の記念碑には、王のヤシャパサフが王権の象徴であるしゃくを後継者に渡す場面が描かれています。新たな治政の始まりを示すものです。

しかし実際には、新たな王の治政が始まることはありませんでした。この碑文は、未完成のままです。完成する前に戦乱が始まり、国が崩壊したためです。いくつかの都市は、血なまぐさい戦乱の中で滅び去っていきました。

現代に蘇ったマヤ文字

マヤの人々は、かつて、自分たちの文字を強制的に奪われ、今では、マヤ語を話せる人も少なくなっています。しかし、マヤ文字が解読されたことで、変化が起きています。

言語学者 キャサリン・ジョサランド「マヤ語のワークショップを開いて、参加者に、マヤ文字の読み方を教えました。」

言語学者 ニコラス・ホプキンス「数人の人が、あの文字を読めるんですか、と尋ねてきました。彼女は、はい、かなり読めるようになりました、と答えると、こう言ったんです。すごい!これこそ我々の奪われた歴史、我々が知りたかったことなんです。」

マヤの人々は、何世紀ものあいだ抑圧され、スペイン語を使い、キリスト教風の名前を名乗るよう強制されてきました。しかし、彼らはいま、マヤ文字と、自分たちの民族の歴史を、再発見しています。

碑文研究者 リンダ・シーリー「どんな民族にとっても、最も大切な財産は、自分たちの歴史です。マヤ文明は、人類の歴史に大きな貢献を果たしました。マヤ文字の解読は、その事実を理解するための第一歩にすぎません。」

碑文研究者 サイモン・マーティン「マヤ文字は、コロンブス到達以前のアメリカ大陸の歴史を物語る、貴重な資料です。私たちの知りたいことが全てわかるわけではありませんが、マヤの人々が大切にしていたものを、彼ら自身の言葉で教えてくれるんです。」

マヤ文字を解読することで、古代の人々が残した言葉が、現代に蘇りました。失われた世界の、歴史と文学が、再び息を吹き返したのです。≪終≫

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