私という人間

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性欲 七つの大罪

エバグリオスのリスト

七つの大罪は、我々一人一人のなかに存在する。そして、我々の魂を左右すると考える者もいる。

FATHER LUKE DYSINGER,O.S.B.
ST.JOHN'S SEMINARY

これらの罪は、死をもたらすこともあるほど、人々の心に深刻な影響を与えます。

色欲、嫉妬、暴食、怠惰、強欲、憤怒ふんど、傲慢。キリスト教の教えでは、それを考えるだけでも、罪を犯したことになるという。

FATHER JOHN S. BAKAS
DEAN, ST. SOPHIA CATHEDRAL

聖書によると、罪の代償は、死です。

なぜこれらの罪が、七つの大罪になったのかには、隠れた歴史がある。七つの大罪は我々の歴史、社会、そして魂に、大きな影響を与えている。

BOB LARSON
SPIRITUAL FREEDOM CHURCHES, INT.

神が定めた倫理に背けば、恐ろしい代償を払わなければなりません。

人が最も犯しやすい罪は、色欲である。聖書のなかには、七つの大罪に関する記述がない。その由来は、どこにあるのだろうか。

MARVIN MEYER
PROF. OF RELIGIOUS STUDIES CHAPMAN UNIVERSITY

厳密に言うと、七つの大罪は聖書にありません。
七つの罪のリストは、載っていないのです。
初期のキリスト教会の、道徳的な利益から生み出されたものです。

375 A.D.

紀元375年ごろ、一人の修道士が、コンスタンティノープルの誘惑から逃れ、エジプトの砂漠にある、小さな修道院へやってきた。彼の名は、エバグリオス・ポンティコス。エバグリオスは、孤立した環境で、己の魂と深く向き合い、さっそくそこで見つけた感情を記し始めた。

FRANK MURPHY
DIR. SPIRITUAL FORMATION KEYSTONE SCHOOLS

彼は、自分が戦った感情をリストにしました。
傲慢、暴食、色欲などです。

エバグリオスは、多くの誘惑のなかから最も恐ろしく危険なものを選び、一つのリストを作成した。8つの誘惑的感情が選ばれた。色欲、暴食、怠惰、強欲、憤怒ふんど、傲慢、虚飾、悲しみ。

FRANK MURPHY
DIR. SPIRITUAL FORMATION KEYSTONE SCHOOLS

ある意味で、七つの大罪は、マリファナにたとえられます。
マリファナは、強力な麻薬の使用につながる、ぐちドラッグと考えられています。
入り口ドラッグのように、適した呼び名はありませんが、似たように、弱さや心配につながる、思考パターンがあるのです。

エバグリオスは、リストを作りながら、自分の罪深さを振り返っていたのかもしれない。砂漠に隠遁いんとんする前、助祭長だったエバグリオスは、ローマ人高官の妻と不倫関係にあった。そのため、異郷に来てから、ある罪の意識と格闘していた。色欲である。修道士は、女性と会う機会がめったになかったが、色欲の誘惑は消えなかった。

MARVIN MEYER
PROF. OF RELIGIOUS STUDIES CHAPMAN UNIVERSITY

色欲が生まれると、修道士たちは、オイルランプの火に指を当てて、その感情を紛らわせました。
体のほかの部分の痛みに意識を向けて、欲望を抑えようとしたのでしょう。

色欲という罪。信心深い古代人は、性的快楽への過度の欲望とみなした。聖書のなかでは、みだらな行為、姦淫、肉の欲望と呼んでいる。性的欲望は非常に強いため、人間の心を圧倒し、破壊する。

古代の色欲崇拝

しかし、古代の世界の大半では、色欲が罪ではなかった。むしろ賛美されていた。インドのカジュラーホにあるヒンズー教の寺院。さまざまな体位で交わる男女の彫刻で飾られている。カーマスートラという性愛の経典からり抜かれたものだ。

この古代インドのヒンズー教経典には、64種類の性行為が詳細に解説され、売春の神聖な宗教的側面、集団セックス、同性愛、SM行為について論じられている。カーマスートラのなかでは、セックスと宗教が一体なのである。

古代ギリシャ、ローマの世界でも、性を称賛する記念碑が建てられている。古代ギリシャでは、豊穣の神ヘルメスにちなんで、ヘルマと名付けられた巨石の男根像が境界線や道端の目印となった。デュオニュソス神は、森での激しい性行為で崇拝された。

セックスは宗教の一部であり、乱交を意味するオージーとは、もともとギリシャ語で、単なる秘密の儀式という意味だった。

EDWARD SHORTER
PROF. OF MEDICAL HISTORY UNIV. OF TORONTO

ギリシャ、ローマ人の性に対する意識は、現在と同じように、抑圧されていませんでした。
セックスは、善心体験の一種として、ギリシャ、ローマ社会の上流階級のあいだで、受け容れられていたのです。

そして、最も色欲を崇拝していたのは、ローマ帝国だった。港町ポンペイには、優れた古代ローマ芸術の代表例が、多く残されている。

MARVIN MEYER
PROF. OF RELIGIOUS STUDIES CHAPMAN UNIVERSITY

ポンペイは、素晴らしい店です。
その素晴らしさを支える一面として、かなりの数の性愛芸術があります。

ポンペイの芸術作品は、紀元1世紀のものだ。いくつかは、売春宿から発見され、性的なサービスや価格について記された碑文が見つかっている。

古代ギリシャ人は性愛を楽しみ、路上や街頭、そして家のなかで、なんの躊躇もなく、性的感情をあらわにしていたのは確かです。

ローマ人の色欲崇拝は、皇帝カリグラが即位した、紀元37年にピークを迎えたようだ。この若い皇帝は、自分の妹を含むローマ中の魅力的な女性にセックスを求めたといわれている。また、宮殿の一部を売春宿に変え、そこでローマの既婚女性に売春をさせて楽しんだといううわさもある。カリグラが28歳の若さで暗殺されたのは、神の怒りの表れだといわれた。色欲に溺れたからである。

ローマ人は、色欲の感情を、官能的な性愛の女神であるビーナスに仕立てた。

MARVIN MEYER
PROF. OF RELIGIOUS STUDIES CHAPMAN UNIVERSITY

古くは、神や女神が、我々人間と同じように世界を作り出し、子供を産むと考えられていました。
人間や地球上のあらゆる生き物が生まれたのは、神や女神が性行為をするおかげだと考えたのです。

いっぽう、古代の中東では、全く異なった性の概念が登場してきた。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の伝承では、大地は女神ではなく単なる物体で、神は、天にいる大いなる独身男性だとみなされました。
そのため、この系統の宗教では、神と女神の性愛が称賛されることがなかったのです。

十戒とダンテの地獄

旧約聖書には、固有の、べし、べからずリストがある。しかしそれは、七つの大罪ではない。十戒である。

RABBI DAVID WOLPE
SINAI TEMPLE

十戒は、正しい行いについて、定めています。
罪とは、相対あいたいするものです。

十戒には、色欲に関連して、姦淫してはならない、隣人の妻を欲してはならないという、二つの定めがある。旧約聖書、つまり、ヘブライ語聖書でとがめているのは色欲で、性愛そのものではない。性愛の域を超えた色欲を、非常に懸念していたのである。

ユダヤ教では、性的欲望が手におえないことを理解しています。
人は持つべきものでないものを、常に求めています。
欲望自体は罪ではありません。
どう行動するかなのです。

キリスト教は、この伝承を受け継ぎ、拡大した。そしてイエスは弟子たちに、女性に色欲のまなざしを向けただけで、姦淫の罪になると話した。

FATHER LUKE DYSINGER,O.S.B.
ST.JOHN'S SEMINARY

イエスは、考える罪に重きを置きました。
精神的にも、姦淫の罪を犯すことができるのです。

イエスはまた、罪を犯したら地獄に落ちて、永遠の罰を受けると説いた。信者たちは、七つの大罪を犯した者は、地獄に送られると信じた。しかし聖書にはどこにも、地獄が描かれていない。

罪人が受ける永遠の罰について描写されるのは、もっと後の時代になる。イタリア人作家、ダンテ・アリギエーリが、筆をるのだ。

1320 A.D.

1320年ごろ、ダンテは、神曲を書き上げた。そのなかで地獄、煉獄、天国を詳細に記述している。物語は、ダンテが暗い森のなかに迷い込むところから始まる。その森で、古代ローマの詩人、ウェルギリウスに出会い、地獄の門へ案内してもらう。

ダンテは、地獄を九つの層で表した。最も軽い罪から極めて重大な罪まで、下へ行くほど、だんだん罰が重くなる。七つの大罪すべてが描かれていて、罪人は、犯した罪に対する報いを受けなければならない。色欲の罪は、第二の層で裁かれている。色欲にとらわれた者たちは、休息の希望もなく、灼熱の暴風に吹き流されるこの罰は、色欲の激しい力の象徴だと考えられている。

MATTHEW BROSAMER
PROFESSOR MOUNT ST.MARY'S COLLEGE, LOS ANGELES

ダンテは、色欲を色々な意味で、最も軽い罪だととらえていました。
その理由は、ダンテ自身が色欲に対して一番の罪悪感を持っていたからかもしれません。

ダンテはそのあと、煉獄を訪れる。そこでは、かつて胸を焦がした性欲に似た炎で、人々が清められていた。ダンテが描いた地獄は、非常に説得力があったため、キリスト教で最も一般的なものとなった。しかし、この地獄の描写は、聖書とは関係がない。地獄の階層や、永遠の罰は、ダンテの小説のなかだけに存在する。

聖書での色欲の禁止は、初期のキリスト教の一派には、浸透しなかった。この急進的な教派は、色欲のとらえ方が全く異なり、罪として軽蔑する代わりに、聖なる儀式として取り扱ったのだ。

色欲的カルト集団カルポクラテース派

七つの大罪。何世紀ものあいだ、社会の規範となった。キリスト教信者にとって、より良い人生を送るための道徳律である。規範の詳しい定義や、罰則も決まっている。キリスト教では、色欲に対して、固有の見方がある。聖書には、みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男色をする者は、神の国を受け継ぐことができないと記されている。

325 A.D.

しかしこの見解は、必ずしも一致していなかった。初期キリスト教の一派の考え方は、全く違っていた。紀元325年ごろ、敬虔なキリスト教信者の小さなグループが、礼拝のために集まった。

礼拝は、衣服を脱ぐ儀式から始まり、身体に精油を塗って、マッサージをし合う。その後最高潮を迎え、司祭と女司祭の性行為で締めくくるのだ。

Gnostic

彼らはキリスト教グノーシス派の一派で、カルポクラテースCarpocratians派と呼ばれる。グノーシス主義のグノーシスとは、ギリシャ語で、知識や啓発を意味する。

MARVIN MEYER
PROF. OF RELIGIOUS STUDIES CHAPMAN UNIVERSITY

グノーシス主義は、罪について、非常に異なった考えを持っていました。
実際、マリアの福音書には、イエスが罪など存在しないと言ったとあります。

4世紀の司祭、聖エピカニウスは、グノーシスの儀式を具体的に記述している。彼らは激しく興奮し、分泌物や突起物で手を汚しながら、全裸で祈りをささげる、と。しかし、それはグノーシス派を陥れるためのデマだったと考える者もいる。

異端を追求する研究者たちは、グノーシス派に敵対心を持ち、彼らのあらを探して、非難しようと躍起になっていました。
グノーシス主義者は欲望のままに誰とでもセックスし、乱交パーティを開き、身体から出る分泌物を互いに飲み合っている、などと異端追求者たちは触れ回ったのです。

主流派のキリスト教教会は、この色欲的なカルト集団を、権力的、精神的脅威だとみなした。そこで反撃に出る。グノーシス派の福音書は破棄され、信者たちは追放され、反グノーシス側からの恐ろしい話だけが、歴史に残った。

教皇グレゴリウス一世の改革

4世紀、グノーシス派が消えかかっていたころ、時を同じくして、エバグリオス・ポンティコスが8つの誘惑的な感情を選んだ。しかしそれらは、ほとんど知られていなかった。エバグリオスは、砂漠で隠遁生活をしており、リストは修道士向けに作られた。七つの大罪の考えが主流となったのは、その200年後である。

ローマ帝国が滅亡、その結果、暗黒時代が幕を開けた。色欲に向かう官能的で開放的な態度は根絶された。ローマ帝国に替わって勢力を強めたのは、教会だった。

590 A.D.

改革者である、教皇グレゴリウス一世によって、8つの誘惑的感情は、七つの大罪へと変貌を遂げる。

グレゴリウス1世は、8つの感情のなかから、悲しみと虚飾を削除して嫉妬を追加し、七つの大罪を、現在と同じものに変えた。そしてキリスト教世界全体に広めたのだ。七つの大罪は、聖書に記されてはいないが、いまや、キリスト教の教義となった。

グレゴリウス一世は、カトリック教会の歴史上、偉大な改革者の一人だ。彼は、ほかにもキリスト教義に変革をもたらし、教会、そして罪の概念に大きな影響を与えた。特に、色欲に関する罪の概念を変えた。ローマカトリック教会のすべての司祭は、禁欲を誓うべきだと宣言したのだ。

それまで司祭は、結婚を選ぶことができた。聖職者の独身性は、権力の集中を目的としていた面がある。グレゴリウス一世は、司祭や司教の子供に教会を世襲させたくなかった。これは、かなり大きな影響を残した。比較的短期間のうちに、独身主義は神学的な概念から発達し、すべての信者が、性的な感情や肉欲を持つことを、大々的に非難するまでになった。

EDWARD SHORTER
PROF. OF MEDICAL HISTORY UNIV. OF TORONTO

教会は、明らかに、反快楽主義へと変わりました。
性的感情は、子孫を残すためだけに存在すると考え、それ以上の感情を持つことは、罪だとみなしたのです。

禁欲主義の聖職者たちは、社会や政治における規律を作った。教会は、七つの大罪と対極をなすものとして、七つの美徳を作り上げた。人間の魂の葛藤に、永遠に関係するものだ。色欲の罪に相対あいたいするのは、貞潔ていけつ。何世紀ものあいだ、キリスト教の基盤となった美徳だ。

中世の神学者たちは、色欲だけでなく、あらゆる性的感情を問題だと考えた。暗黒時代には、夫婦間におけるものさえ非難された。これが、およそ千年にわたり、西洋文明の性に対する考え方となる。

サキュバスとの性交

色欲は、悪魔と結びついた。当時、それぞれの罪は、ある特定の悪魔の姿となって人にとり憑き、心を支配すると広く考えられていた。悪魔にとり憑かれた場合の対処方法はひとつ。悪魔祓いの儀式を受けるしかない。

出てこい!

出るんだ!

ううっ…ぐぐ…。

初期のキリスト教の修道士たちは、七つの大罪には、信者を地獄へ落としめる力があると信じていた。信仰心の篤い人々でも罪を犯すのは、悪魔のせいではないかと考えた者もいる。人間は何千年にもわたり、悪魔の存在を信じてきた。旧約聖書では、砂漠の悪魔的な霊が語られ、新約聖書では、イエスが悪魔祓いをしたとある。

修道士たちは、祈りや断食で色欲へといざなう悪魔に対抗した。悪魔とは、神に反抗し、サタン側についた天使だと考えられている。地獄の穴に投げ込まれ、永遠に人間の心を惑わし続ける定めとなった。

BOB LARSON
SPIRITUAL FREEDOM CHURCHES, INT.

悪魔は、邪悪で有害な、超自然的存在です。
悪事を行うために、乗り移れる人間の体を探して、地上をさまよっています。

中世には、悪魔研究、すなわち悪魔学が、科学のようなものになった。キリスト教の修道士たちは、悪魔を分類し始めた。ソロモンの鍵や、大奥義書などの書物には、何千という悪魔の名が挙げられ、カテゴリ、サブタイトル、階級によって分けられている。

悪魔学者たちは、悪魔と会話するために、薬を調合し、呪文を作った。悪魔論はやがて、七つの大罪それぞれの罪を象徴する、七大魔王が率いる悪魔団が存在するという考えにたどり着く。

それぞれの魔王には名前があった。アモンは憤怒ふんどの悪魔。ベルフェゴールは、怠惰の悪魔。そして色欲の悪魔は、アスモデウスだ。

“Aeshma-Daeva”

アスモデウスという名は、ペルシャの悪臣あくしん、エシュマデーバに由来しているといわれている。この悪魔が、経典に初めて登場するのは、聖書のトビト書だ。若く美しい女性と肉体関係を持ち、その女性に7人もの婚約者を殺害させたのである。この悪魔は危険で強力だ。

しかし、ソロモンの遺訓などの魔術書によると、アスモデウスは、呪文で追い払えるという。また、この悪魔は、性的欲望を認めることを強いられていた。

サキュバス

そして、サキュバスと呼ばれる美しい女悪魔と性交が可能だったとさえいわれている。この女悪魔は、気が遠くなるような快楽を与えて、人間の魂を奪う。しかし、悪魔との性交は、単なるたとえ話ではないという者もいる。現実だというのだ。

悪魔祓い

クリスチャンとして、放棄します。

すべての権利を。運命を止める権利を。

牧師のボブ・ラーソンは、自分の教会で行っている礼拝で、悪魔と戦っている。

コリント人への手紙、第2。10章3から5節。
心の防御を打ち破る言葉…。

BOB LARSON
SPIRITUAL FREEDOM CHURCHES, INT.

七つの大罪は、私たちすべてが一員である社会を攻撃します。
私たちは、絡み合う組織の一部です。
倫理に反せば、誰かが勝ち、誰かが負けます。
だから、七つの大罪なのです。非常に有害です。

聖書を持ってきてください!

げほっ、げほっ…。

いいから、出てこい!

悪魔と戦うための伝統的な方法は、文字通りの悪魔祓い。罪の悪魔をおびき出し、戦いを強いる。悪魔祓いは、悪魔が信じ始められた当初からある。中世までには、さまざまな悪魔憑きの症状が、広く知られていた。

悪魔に取り憑かれると、外国語で会話したり、超能力を使ったり、神聖なものを嫌ったり、やたらに、神や神聖を冒涜したりする。その救済手段も、同じくらいある。

多くの神聖なもので、悪魔を追い払えます。
精油を、十字の形に塗ること。十字架や、聖書をそばに置くこと。祈りや、聖書の読み上げ。
このような神聖なものは、悪魔が嫌がるため、挑発するのに使えるのです。

ラーソン牧師が最も頻繁に対決する悪魔は、色欲の悪魔である、アスモデウスだ。

たびたび、色欲の悪魔を相手にします。
悪魔は、わいせつな者からも入りますが、性的虐待をしている人物を通して入ってくることが、よくあるのです。

ラーソン牧師は、古くからの手法を使って、色欲の悪魔を追い払おうとする。

苦しめ!苦しめ!

私は悪魔に、言うべきことを言わせます。
たとえば、色欲の感情は、神の創造物である、この人物に対する権利を放棄する、もはや色欲は、とどまる権利がない、とね。

出ていけ!

んぬぅーっ!

出ていけぇ…!さあ…!

うう…うう…。

いいぞ…。

すると、悪魔は反論して言うでしょう。出て行かない、この人物は私のものだと。
それでも、悪魔に立ち去るよう、言い続けます。

彼の悪魔祓いは、主流派の聖職者のあいだで、物議を醸している。しかしそれは、キリスト教古来の儀式を、思い出させる。

ピューリタンの色欲制裁

1213 A.D.

七つの大罪は、中世までに、悪魔や悪魔祓いと関連付けられるようになった。同じ時代、1213年に召集された会議、キリスト教会は、罪に対して、新たな方法を導入した。懺悔である。

キリスト教信者は、少なくとも年に一度、司祭のもとへ出向き、自分の罪を事細かに話すことを求められた。教会は、信者が何を懺悔すべきか、具体的に決めるための手順として、七つの大罪のリストを利用するよう勧めた。

FATHER LUKE DYSINGER,O.S.B.
ST.JOHN'S SEMINARY

司教は、人々に七つの大罪を犯していないか振り返るよう、頻繁に繰り返していました。
懺悔に行くために、必要なことです。
人生を整理し、人生を変えるために、考えるべきことなのです。

七つの大罪は、人々の生活に根付いて、ヨーロッパ中で、大衆文化の一部となった。七つの大罪は、教会の彫刻となり、祭壇に描かれ、聖書の余白に書き込まれ、物語や詩、叙事詩で表現された。

その後の16世紀、統制されていたキリスト教世界に、大きな変化が訪れる。キリスト教が、プロテスタントとカトリックの二つに分離したのだ。この分離は、宗教改革と呼ばれる。1517年に始まり、その後、150年間続くことになった。二つの勢力の主な相違点の一つは、プロテスタントが、懺悔を否定したことである。しかし、色欲という罪の意識は、固く守られ続けた。

この期間、プロテスタントの一派、ピューリタンは、罪に満ちたヨーロッパ大陸を離れ、宗教の自由を求めて、新世界へと向かった。ピューリタンは、その敬虔さと、より純粋な崇拝形式や教義を作ることを主な目標にしたことで、よく知られている。彼らは北アメリカで、罪が容認されない植民地を作ろうとした。

1620 A.D.

ピューリタンは、1620年、マサチューセッツ州、プリマスに上陸する。そこで色欲の罪が、神学や法典の中核をなす植民地を形成した。

プリマスでは、色欲の罪を犯した者は、酷い罰を受けた。姦通の罪を犯した女性は、生涯、Aという文字を身に着けるよう、言い渡された。配偶者以外と性交をした者は、公衆の面前にさらされ、むち打ちの刑を受けた。男色や獣姦を犯した場合には、死刑となった。

しかし、ピューリタンがいくら弾圧しても、色欲の罪は絶えなかった。その理由は、色欲が、人間の脳に組み込まれているからだと考える者もいる。

姦通の科学

何世紀も続くキリスト教の教義によると、七つの大罪は、地獄への入り口だった。色欲の罪は、聖書、キリスト教の伝統、アメリカに移住したピューリタンの教えのなかで、罪だとされる。抑圧にもかかわらず、色欲の罪はなくなることがなかった。

現代の科学者にとって、色欲は罪というより、科学である。

DAVID BARASH
UNIV. OF WASHINGTON

七つの大罪には、生物学が、大いに関係しています。
色欲でも、憤怒ふんどでも、強欲でも、適度であれば、このような欲望が、人々の繁栄に重要な役割を果たす、特性となるのです。

何世紀もかけて社会が変化してきたいっぽうで、人間の本能は、変わらぬままである。

HELEN FISHER
AUTHOR, WHY WE LOVE

性的衝動は、400万年変わっていないでしょう。
色欲は、感情ではありません。脳のなかにある、非常に原始的な部分から沸き起こる、衝動なのです。

Testosterone
Dopamine

色欲を抑えられない理由が、理解できたと考える科学者もいる。性交本能、つまり、色欲と呼ばれるものは、テストステロンというホルモンによってもたらされる。この物質は、男女両方の性的衝動で見られるものだ。そして恋愛のための神経化学物質はドーパミンで、快楽や集中をつかさどる。

誰かと恋に落ちると、脳内でドーパミンが分泌されます。
ドーパミンは、性的衝動をもたらす、テストステロンを放出させます。

相互に関係する二つの脳内物質が、悪影響を及ぼすことがある。恋愛に関係するドーパミンが、我々を色欲へと導き、テストステロンが、偽の愛情を感じさせるのだ。

どんな性的刺激においても、性的衝動につながるテストステロンだけでなく、ドーパミンも放出されます。
それによって、恋に落ちるよう、背中を押されるため、行きずりのセックスが、行きずりで済まなくなるのです。

進化によって、性交や繁殖の衝動が備わった。しかし人間はまた、特殊な繁殖行動をするようになった。

科学者が、いっいちゆうの習性と呼ぶもの、つまり、一夫一婦制である。人間の色欲を深く理解するために、ほかの動物の交尾習性を調べてみよう。

DAVID BARASH
UNIV. OF WASHINGTON

人間は、ほかの動物たちと同様に、複数の性的パートナーを持ちたがることがわかりました。
生物学者は、EPCについて論じます。
EPCとは婚外交尾のことで、人間でいう、姦通です。

遺伝子学的証拠によると、狼や白鳥など、つがいになる種でも、婚外交尾しているのが普通だという。EPCの生物学的理由は単純だ。浮気や姦通は、種が進化するうえで、有利だからである。

おすの場合、さらにほかの雌に受精させることができるかもしれません。
あまり努力しなくても、父親になれるのです。

雌の場合、ほかのおすからも受精することで、よりよい遺伝子が得られる。

色欲が罪と呼ばれた唯一の理由はおそらく、婚外交尾を抑制するためだろう。つまり人間でいう、姦通を抑えたかったのだ。

欲情している男が近くにいれば、自分の妻と性的関係を持つ可能性があります。
また、女性であれば、自分の夫をめぐって、他人と争いが起こる可能性があります。
ですから社会的に考えると、人々の色欲を抑えることが、有効なのです。

何百年ものあいだ、色欲を抑えるための長い聖戦があった。そしておおむね、勝利を収めてきた。しかし20世紀の初めになると、人々の意識が変わり、色欲の罪が力を盛り返すことになる。

20世紀 色欲の復活

七つの大罪は、すべての信者の道徳として、キリスト教がまとめたものである。色欲の罪は、波乱万丈の歴史を持ち、古代ギリシャ、ローマ時代には賞賛され、中世には非難された。アメリカのピューリタンには、不法とまでされた。

1800年代のビクトリア時代は、性的感情が抑えられていたことで、よく知られている。ビクトリア時代の文学では、いかなる性的感情も、異常で不道徳であり、正気でないとさえ描かれた。

もちろん正式に結婚を許可されれば別である。売春行為、そして姦通や男色、その他の色欲的な行為はすべて、もちろん隠れて続けられていた。

20世紀にかわると、色欲は、新しい時代を迎える。産業化により、科学技術の進歩や都市化がもたらされたからだ。1920年代の自由奔放な女性たちによって色欲の概念が進化し、新たな女性観が生まれた。1950年代までに、経口避妊薬が手に入るようになり、性の意識や、色欲の罪が姿を変える準備が整う。

色欲の罪は、性革命が世界に旋風を巻き起こす1960年代までに、十分に進化した。色欲の罪と、貞潔の美徳の位置づけが変わったように思われた。善悪の判断は、各自に委ねられたかのようだった。

その革命の波に乗り、ある意味で扇動したともいえる一人の男がいる。ヒュー・ヘフナーだ。

HUGH M. HEFNER
PLAYBOY FOUNDER, EDITOR-IN-CHIEF

大罪のなかで好きなのは、もちろん色欲です。
生きるための色欲は、健康的だと思います。
性行動もそうです。

ヘフナーは、雑誌プレイボーイを創刊する。古代人を目指して帝国を築き、とてつもない神殿を建て、意気揚々と色欲を崇拝した。

プレイボーイは、性革命に重要な役割を果たしました。
セックスは悪ではないというメッセージを、広めたのです。

長年、宗教が根絶させようと試みたにもかかわらず、色欲は、いつも復活する。色欲が不可欠であり続けるのは、生物学的、脳科学的に理由があるのだろうか。

色欲と葛藤 中庸の必要性

ワシントン州シアトル。脳科学者たちが、人間の性行動における正確な神経構造を描こうとしている。ケン・マラビラ博士は、色欲や性行動が、脳の各部に与える影響を調べている。調査には、二つの装置を使う。ひとつは、MRI。単なるDVDプレイヤーだ。

DR. KEN MARAVILLA
UNIV. OF WASHINGTON

被験者には、MRIのなかで、性的にそそられるシーンを含む映像を見てもらいます。
この映像は、被験者が性的に興奮できるよう、作られたものです。

実験は単純なものだ。被験者は、まず基準値を取るために、普通の映像を見る。その後、性的にきわどい映像が、数分間流される。その間、マラビラ博士と研究スタッフが、被験者の脳の変化を覗き見るのだ。

前頭葉には、報酬や心地よさと関連している部分がありますが、興奮すると、そこが目立って活発になっていることがわかりました。
しばしば、扁桃体も活性化します。
扁桃体は、意思決定や評価をつかさどる脳の領域の一つです。

MRIによって、被験者が性的に興奮すると、興味深い新発見があることが分かった。

また、脳の特定の箇所が、不活発になることも分かりました。
その部分は、脳のなかで、道徳判断や、抑制などに関連している領域のようです。

脳のなかで、色欲に関係する分野が動きだすと、判断にかかわる分野が止まる。つまり、人は興奮すればするほど、明確な判断ができなくなってしまうということだ。科学が、色欲と判断力の低下が、直接関係していることを示した。この理論は、性行動を研究する社会学者の、基本前提を裏付けている。

PAUL BLOOM
AUTHOR, DESCARTES' BABY

性欲自体に問題はないのです。
性欲があるのは正常ですし、健全です。
それが過剰だったり、不適切に使われたりすると、色欲です。

この定義でいくと、有害な場合に、罪になるということになる。科学的な観点によると、問題なのは、地獄に行くことより、行き過ぎることのようだ。

HUGH M. HEFNER
PLAYBOY FOUNDER, EDITOR-IN-CHIEF

七つの大罪は、過剰な行動に関係しています。
豊かな人生を送るためには、中庸が大切なのです。

RABBI DAVID WOLPE
SINAI TEMPLE

良いことをするために使われるエネルギーが少しそれて、罪を犯す原因になってしまうこともあります。
心のなかには常に、複雑な葛藤があるのだと、理解することが大切なのです。
人生の質や、清らかな魂は、日々の生活での、あなたの決断にかかっているのです。

FATHER JOHN S. BAKAS
DEAN, ST. SOPHIA CATHEDRAL

キリスト教では、罪は罪でしかありません。
今日の規範で認められようと、問題ではないのです。
普遍の倫理があります。

まだ疑問は残る。罪である、色欲、嫉妬、暴食、怠惰、強欲、憤怒ふんど、傲慢を犯すと、永遠に地獄で処罰されることになるのだろうか。

あなたが何を信じようとも、七つの大罪は、我々と無関係ではない。

社会や我々自身、そして、おそらく我々の魂に、影響を及ぼしているものなのだ。

<終>

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