アルフレッド・アドラー 100の言葉への一考察

もくじ

1.あなたが創るあなたの人生

人生が困難なのではない。
あなたが人生を困難にしているのだ。
人生は、きわめてシンプルである。

「人生を困難にする」とは

人生を困難にするのは、あなたの思いです。

あなたの思いが、あなたの人生を創ります。今、どんなつらい状況にあなたがあったとしても、「もうおしまいだ」と思うのもあなただし、「もう一回やってみよう」と思うのもあなたです。

幸せになるために重要なのは、ひとえに心の在り方です。「誰かのせいで」、「~が悪い」、「~しなければならない」と判断しないことです。あなた自身のことも、他の誰かのこともです。

今まであなたが、何かをそのように判断したり断定していたのなら、その心の癖をまず直すよう心がけてください。あなたに、「心の癖」があることに、まず気付いてください。

とくに、「罪」、「罰」、「善」、「悪」という言葉をついて、よくよく考えてみることです。あなたは、誰かに罰を与えることはできません。あなたの中にも、悪はあります。

あなたが、矢印を自らの心に向けてたとき、そして自らの心の中の邪悪を摘み取る作業を開始したとき、あなたの本当の人生が始まります。

2.人間は自分の人生を描く画家である

人間は自分の人生を描く画家である。
あなたを作ったのはあなた。
これからの人生を決めるのもあなた。

「私の人生を作ったのが、私だけのはずがない」。あなたはそう言うでしょう。

あなたは、自分自身のことを、この宇宙の中のちっぽけな生命の一つと考えてはいないでしょうか。もしそうなら、それは間違いです。真実は、「あなたにとって、あなたの人生こそが“この宇宙の全て”であり、あなたこそが、あなたの宇宙の王」なのです。あなたの人生(宇宙)に、王はあなたただ一人です。

あなたという王が創った世界

あなたは、あなたの外側からの影響で今の人生を作り上げたのではありません。逆です。あなたが、あなたの人生と、この世界を作り上げました。苦しみに満ちた世界を、あるいは、幸せに満ちた世界を。

3.自分で決める

たとえ不治の病の床にあっても、天を恨み泣き暮らすか、周囲に感謝し余生を充実させるか、それは自分で決めることができる。

人を憎み、恨み抜くことによって、その誰かがあなたの人生から消えたとします。しかし、間もなくあなたも消えてなくなるでしょう。他の誰かの、別の恨みによってです。

物理的に、そう選択する人さえいます。また、国家や特定のグループは、その正当性を主張して、ミサイルや銃弾を毎日飛び交わせています。火や銃弾で何かを奪ったら、あなたがそれを同じ方法で奪われない保証がどこにあるでしょうか。

恨みを断ち、幸せを分ける

あなたの心の中で、あなただけの恨みを、断ち切ることができるでしょうか。ときに、それにあなたは嫌気がさすでしょう。きっと、強い勇気が必要でしょう。私は奪われたのに、いわれもなく、あんなにひどいことをされたのに、なぜ黙っていなければならないのか、許されないのは相手の方だ、そう思う人もあるでしょう。

しかし、本当は、あなたは何も奪われてはいません。あなたは、喜びも、悲しみさえも、与えられたのです。与えられた幸せと悲しみのうち、どちらを他の誰かに分けてあげるのかは、あなた次第です。幸せを分けてくれる人と、悲しみを分けてくれる人、そのどちらを好むかも、あなた次第です。

あなたはそのようにして、幸せと不幸せを、自分自身で選択し続けます。

4.環境は材料である

遺伝や育った環境は単なる「材料」でしかない。
その材料を使って、住みにくい家を建てるか、住みやすい家を建てるかは、あなた自身が決めればいい。

全ての環境は、あなたの魂に磨きをかけるための、テストと課題の材料です。

完全で完璧に美しいものが存在するとき、不完全で醜い存在もまた必要です。これは実に哲学的な考え方ですが、変化がある場では、つねに物事は相対的
なぜ、あなたは完璧ではないのか×
あなたはかつて、完璧な存在でした。しかし、完璧でなくなる選択をすでにしたのです。
なのです。

あなたが選ぶ家

これと同じく、住みやすい家が存在するために、住みにくい家もまた、存在しなければなりません。より住みよい家を建てる(よりよい人生を創る)目標を掲げ、そこを目指したいと思うなら、あなたは今すぐにでも、その選択をすることができます。また反対に、そこへ留まる選択もできるのです。

5.誰かのせい

「親が悪いから」
「パートナーが悪いから」
「時代が悪いから」
「こういう運命だから」
責任転嫁の典型的な言い訳である。

このアドラーの言葉をすんなり受け入れられる人は、相当精神的に成熟した人でしょう。

私にも、この言葉がたいへん耳に痛く感じる経験があります。ただ、責任転嫁することは問題の解決はおろか、同じ失敗と痛みを繰り返し味わう道を自ら選択することに他ならないことも、今では理解できます。

この言葉から学べることは、まず「悪い」こととは何か、よく考えよということです。また、そのようして、他者が悪いとすること、つまり責任が自分にないと考えること自体が、何をもたらすのかよく考えよということです。

悪とは自ら自らの心に付けた火のことです。後者は、その心の火を消火しないこと、つまり苦痛を味わい続け、心が灰になるまで火を燃やし続けることです。

心に付いた火

あなたの心に火が付くのは、あなたが、「何かを失った」、「奪われた」と判断したときです。誰かが、あなたに迷惑なことをしたとき、またはあなたから何かを奪ったとき、それが、あなたの判断によって「迷惑」な、「奪う」行為であると判断されることに、注意してください。

これは、金銭、動産不動産などの目に見える財産を奪われたときも同様です。あなたから何かを奪ったり、傷つけたりした誰かがあなたの心に火を付けるのではありません。あなたが、あなたの心に悪という火を付けるのです。悪は、他者の中にあるのではなく、あなたの心の中にだけ存在します。

応酬のループからの脱出

誰かが悪いと判断したとき、あなたはその相手に罰を与えたくなるかもしれません。しかし、刑法における罰以外の罰は、絶対に許されません。法律の上でも、また精神論上でもです。

あなたがもし、この神聖な罰を与えないという生き方を徹底できたら、保証します。あなたは、必ず幸せになれます。幸せになれないのは、応酬のループから抜け出そうと積極的に努力しない者だけなのです。

犯罪被害に遭われた方へ

実際に犯罪行為に遭われ、傷害を受けたり、大切な人を亡くしたり、財産を奪われるなどされた方は、とくにこのアドラーの言葉を許容しにくいのではないでしょうか。

同じ苦しみを相手に味わわせたいと強く願う、その思いが頭からどうしても離れないという方々に、私は職務上数多く接してきました。

私が最も望むのは、そういった被害者である方々が、その苦しみから逃れられないために、自らも心を病み、二次的な被害者にならないことです。また、なりかけているなら、そこから脱出させてあげることです。

私は、その記憶を消してあげられる薬があったらどんなに良いだろうと思います。なぜならば、私にもその経験があるからです。

記憶を消すことは不可能です。けれども、その記憶から離れることは可能です。それは、自ら付けた心の火を消すことであり、心が燃え尽きるまで苦しまないことを意味します。

諦めないでください。必ずできます。

6.在りたい自分にあなたは縛られる

人は過去に縛られているわけではない。
あなたの描く未来が、あなたを規定しているのだ。
過去の原因は「解説」にはなっても「解決」にはならないだろう。

この言葉は、不幸な自分、辛い目に遭っている自分を意識するよりも、なりたい自分、夢に描く理想の自分のほうへ、意識を向けるよう促しています。

どっぷり不幸につかり、嘆くことに慣れた人にとって、これはつらい作業です。しかし、自己憐憫は一種の心の癖であり、これが強く出ると、医師から病名をつけられることがあります。

理想的な、あなたのなりたい自分をまず、思い描きましょう。もし、自分の人生が悲しすぎて、それが今すぐできなかったら、いつかそれを思い描こう、とだけ思ってください。あなたが思ったことは、未来に種をまきます。

あなたが思ったことが、未来で起きます。不幸せだと思っていると、未来に不幸せな種をまきます。幸せになりたいと願っていれば、あなたは知らぬうちに、未来に幸せな種をまいています。

心の癖を直すことは可能だ

今は辛いかもしれません。ですが、どうかその心の癖を少しずつ直すよう、心がけてみてください。アドラーは、それが可能であると言っています。

あなたの心は自由だ

あなたは、死に至る脅迫の前でも善を選択することができます。暴力的な拷問や脅迫に限らず、たくさんのずるい人たちが、その望みどおりにあなたの心を動かそうと、あなたに近づくでしょう。あなたが苦痛を怖がって、あなたの心を思いのままに操れることを、彼らは知っているのです。

しかし、最後の心の選択はあなたが行います。あなたの心は完全に自由で、核ミサイルであってもその心の自由を妨げられることはありません。

7.責任転嫁のための病気

敗北を避けるために、時に人は自ら病気になる。
「病気でなければできたのに…」
そう言い訳して安全地帯へ逃げ込み、ラクをするのだ。

これはいわゆる仮病のことを述べています。

「なんとなく辛くて、仕事を休んでしまったんだ」とか、「どうしてもやる気が起きない」と正直に言えることが、モラルです。

「(実は嘘だが、)病気だったからミッションを完遂できなかった」というのは、名誉を嘘で塗り固めることです。世の中にこのような嘘は横溢していますが、それは古来からそうですから、アドラーに学んでみたいと思うあなたは、真似をしないようにしましょう。

「嘘をつかなかったこと」。天涯孤独で貧乏であれ、生涯独身者であれ、これが最大の栄誉です。

8.完全なあなただけが、完全な世界に足を踏み入れる

健全な人は、相手を変えようとせず自分が変わる。
不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。

「完全な世界でないから、私は完全ではない」というのは、実は過ちです。

完全な世界には、完全を目指すあなたが、やがて足を踏み入れるのです。

具体的に言いましょう。世界中の傷ついた人を助けるために、中年を過ぎたある人が、猛烈な勉強の末に医師となり、国境なき医師団へ参加したとします。おそらく、その人は70億の人々を助けた末に完全な世界へ突入しません。目標に向かい、その努力を続ける最中に、その人はその人自身の歩む道の先にある完全な世界に気が付くでしょう。やがてその人は死を迎え、自分の人生を振り返ったときに、完全な世界がそこに確かにあったことに、気が付くでしょう。

完全なあなたへの道は、すぐ隣にある

崇高で完全な世界へと続く道は、あなたが歩む道のずっと先にあるのではありません。あなたが歩む道の、すぐ隣の道のことです。あなたはこの道にいつの間にかジャンプします。そして、その道の歩をしばらく進めたあとに、その道を歩いていることに気が付けるはずです。

9.決断

「やる気がなくなった」のではない。
「やる気をなくす」という決断を自分でしただけだ。
「変われない」のではない。
「変わらない」という決断を自分でしているだけだ。

これまで述べてきたように、世界の何たるかは、あなたの判断に一任されています。あなたが、この世界のただ一人の王だからです。

10.遺伝子はあなたの未来を創らない

遺伝もトラウマもあなたを支配してはいない。
どんな過去であれ、未来は「今ここにいるあなた」が作るのだ。

環境も遺伝も、親も友達も、あなたの人生という家を形作る材料にはなり得ても、家そのものではありません。

筆者は、遺伝は、先天性の障がいであっても、人生を形作る決定的な要素とはなり得ないと考えます。

今は暗闇で歩を進める者も、光を目指すものです。

11.劣等感は誰にでもある

あなたが劣っているから劣等感があるのではない。
どんなに優秀に見える人にも劣等感は存在する。
目標がある限り、劣等感があるのは当然なのだ。

幸せになることを夢見る者は、不幸を知っています。

上は下から見れば上なのであって、現状に不満を抱える者が夢見るのが、幸せです。物事は、相対的なのです。

劣等と不幸せについて、考えてみよう

まずは、劣等とは何か、不幸せとは何かについて考えてみましょう。

手に入らない物が多い状態が不幸せなのか、または、今ある物に単に満足できない心でいることが不幸せなのかについても、考えてみましょう。

たとえば、多くの財産と名誉は、目に見えないあなたの心の形の、一形態です。多数の友人に囲まれ、毎日楽しく過ごしているあなたも、そのような心の一形態をとっているのです。

しかし、多くの財産は、少ない財産に比べた財産の量です。多くの友達は、少ない友達に比べたら、多くの友達、ということになります。では、それらが少なくなったらあなたは不幸せになるのでしょうか。そのような、減ったら不幸せになってしまうことが、本当の幸せでしょうか。

なにかと比べて少ないことを劣等とは言いません。何かと比べて少ないことは、不幸せではありません。

12.劣等感の正体

劣等感を抱くこと自体は不健全ではない。
劣等感をどう扱うかが問われているのだ。

劣等感に苛まれる人は、過大な優越感の裏返しであることもあります。

一見社会的地位が高いとされるセレブリティであっても、社会的地位の高い職業とされる地位に就いている人であっても、何かのきっかけで、一挙に転落する人は、古来から散見されることでした。

はたして、劣等と優越というアイディアにはどれほどの価値があるのでしょうか。あなたの人生を、よりよいものにするうえでです。

触れなくともよい、意識せずともよい言葉、意味があることを、覚えておいてください。

13.劣等感をバネに

劣等感を言い訳にして人生から逃げ出す弱虫は多い。
しかし、劣等感をバネに偉業を成し遂げた者も数知れない。

偉業を成し遂げなくとも、優越することこそ生きがいであると妄執することが、よほど恐ろしいと私は思います。

優越とは、自分の周囲が弱き者ばかりである必要のある立場であって、このような考え方が、世の中を正しく見極めた者の見出した答えであるはずがありません。

劣等感は、優越感の代わりに手に入れるものであることを、私たちはよくよく注意する必要があります。勝ち、負け、優位と劣後など、人々や生き方に価値を見出そうとする行為は、すべての色と、全ての元素が必要であるのに、虹の色や元素に優劣をつけることと非常に似ています。

14.負の注目

人は正しいことをして注目されないと、時に「負の注目」を集めようとする。
人生をみじめにするような努力はやめるべきだ。

だれも見向きもされずに、正直に、清貧で崇高な生き方をしようと決意することは、もしかしたら勇気のいることかもしれません。人間は社会的であり、誰からも虐げられる立場は、苦しいものです。

若者にこの傾向は強いかもしれません。負の注目を集めようとする行為は、愛を求める行為の裏返しであるからです。

しかしながら、それが惨めな行為であると、失敗してから気づいても、決して遅くはないと私は思います。

15.SNSで自慢をするのは「自信のなさ」の表れ

強がりはコンプレックスの裏返し。
「強く見せる」努力はやめて、「強くなる」努力をすることだ。

気が弱く自己主張の不得手な人が、自分の主張をいつも通そうとする人よりも、ある意味で精神的に強靭である場合があります。自分の欲求を満たさない環境に我慢ならない人は、自己主張が強いことがままあります。

文句ひとつ言わず、もくもくと生きていられる人は、コンプレックスのない人かもしれません。反対に、自己主張の強い人は、コンプレックスの塊である可能性もあります。

16.世話好きな人

世話好きな人は、単に優しい人なのではない。
相手を自分に依存させ、自分が重要な人物であることを実感したいのだ。

共依存といって、ダメな人に付き従う夫婦関係に当てはまることです。

なけなしのお金をすぐギャンブルにつぎ込む伴侶に甲斐甲斐しく連れ添っているような場合は、自信の無い人が、自分を必要としてくれる人から離れられない精神状態に置かれていることがあります。

17.無能さのアピール

人は注目されないと、悪さをしてでも注目を集めようとする。
それに失敗すると、今度は自分の無能さを見せつけるようになる。

幼少期に無償の愛が手に入らなかった人にありがちなケースですが、真の幸せについて思いを巡らす努力や、他者への思いやりを著しく欠く場合は、ときには、その幼少時代にさかのぼり、治療を行う必要があります。

しかしながら、心の癖(悪しき癖)は、身体のリハビリと同じように、必ず治すことができます。

18.失敗予測の癖

「みんなが私を嫌っている」
「今回ダメだったから次もダメだ」
という思い込みは、冷静に立証を試みれば消えていく。

これは端的に言うと、嫌われる前に先手を打って他者を嫌うとか、失敗を恐れてチャレンジにしり込みする、自己防衛の一手段です。

誰からも傷つけられず、失敗もしない人生は、一見幸せそうに思えます。しかし、それは人生の醍醐味――強烈な失敗、一生忘れられない失恋、家族との別離、耐え難い喪失――などといった、味わうべき人生の毒をすべて避けることであり、無菌状態では有機生命体がかえって無防備化、弱体化するするのと同じように、精神衛生上不可欠な耐性を失うことでもあります。

失敗、不運、不幸は、自然界に存在する毒が時にはなにがしかの病気の特効薬たりうるのと似て、人生における、かけがえのない薬ともなりうるのです。

不幸を避けないでください。むしろ、不幸と真っ向から対峙して、それを突き抜けたときに、一層の経験値と広い視野、心の寛容さを身につける、高次の自分と出会うことを楽しみにしてください。

人々の悩みは、「不幸から逃げようとしているが、その不幸から逃れられない」ことに起因します。「私は不幸と果敢に立ち向かおうとしているが、苦しい」と言って病院の扉をたたく人は、あまりいないのです。

19.自分を認める勇気

できない自分を責めている限り、永遠に幸せにはなれないだろう。
今の自分を認める勇気を持つ者だけが、本当に強い人間になれるのだ。

不完全な自分を許し、認めることは、多くの人にとってたいへんに困難なことです。

多くの人は、出来ない自分に目をそむけ、他者への非難に明け暮れて、それを繰り返しつつ生き、強烈な失敗で大どんでん返しに遭って絶望したりします。

アドラーのこの言葉に感銘を受ける人は、きっと、何か失敗を経験している人です。また、なにがしかの苦難に今もさらされていることでしょう。

本当に強い人間とは、過去の自分の過ちをすべて白日の下にさらし、恥ずかしい目や社会的制裁に遭ってもなお、生まれ変わってやり直そうと声を上げられる人です。

弱い者は、失敗を隠します。非難を恐れます。他者を陥れてまで責任転嫁し、弱い自分を正当化します。

真の「強さ」とは

真の強さとは、自分の弱さ、いたらなさ、ずるさを認められることです。そのような自分から、逃げないことが強さであり、勇気です。

20.悲しからざる涙

悲しいから涙を流すのではない。
相手を責め、同情や注目を引くために泣いているのだ。

人によっては、強制的に相手に譲歩させたり、謝罪させたりすることを目的に、涙を見せる場合があります。

「女の子を泣かせるなんて」という台詞が、偏ったフェミニズムによって、もっとも卑怯な武器となるケースがあることは、知っておいてもよいでしょう。

最近では男性も泣くことが多くなりました。上に書いた例のとおり、温室で育てられ、初めてぶち当たった壁を乗り越えられずに泣く幼児のようにです。

愛が欲しくて泣く人

年齢に関係なく、可愛がってもらい、注目してもらうという、いわば偽りの愛を求めて、人は泣くこともあります。大人になってからもこの癖が治らない人は、自分自身ばかりでなく、知らず知らずのうちに周囲の人間も巻き込んで傷つけ、出口のない悲しみにどっぷりつかる傾向があります。

この涙を無視する勇気が、とても重要です。下にあるアドラーの言葉でもそれに触れられていますが、未熟な精神においては、同情をかえないとわかると涙を怒りに転化させ、注目を集めようとしがちだからです。

しかし、真にその人の未来を案じ、愛を注ごうとするなら、その心の癖を直すよう、指導すべきです。つまり、わがままが常に叶えられることは、真の幸せではないということを、教えてあげるべきです。子供にも、きっと親はそう教えます。

21.怒りで支配を試みる者

カッときて自分を見失い怒鳴った、のではない。
相手を「支配」するために、「怒り」という感情を創り出して利用したのだ。

かっとなって怒ったことがない人は、少数派であるように思われます。両親がカッとなって怒るさまを見たことのない人なら、この少数派に属することがあるかもしれません。

たいていの場合、カッとなって怒ると相手は引き下がる、と無意識に知っていて、人は激情を顕わにします。

このアドラーの言葉で重要なのは、カッとなったとき、相手を支配するために、自分はこの感情を激発させようとしていまいか、と省察できるよう心がけるべきだ、ということです。

22.感情はあなたを支配する

感情はクルマを動かすガソリンのようなもの。
感情に「支配」されるのではなく「利用」すればよい。

大人の条件は、3つあります。

1.感情を抑制し、制御し、適切に表現できること

2.自らの行動を省察でき、改善できること

3.子供、あるいは子供っぽい人間を、「子供である」、「子供っぽい人である」と認識でき、適切に指導できること

感情を制御し抑制できることは、感情よりも理性を優先できることです。感情を顕わにすることに慣れ、とくに、激情を顕わにすると他者を支配できると知っている者は、犯罪行為により近づく傾向にあります。

嬉しさ、感謝を表現するときを除いて、理性を感情よりも優先させることが重要であるとはっきり認識しましょう。常にその努力を続けられることこそ、いわゆる社会的成功者に多い特質なのです。

ただしここでは、アドラーの言葉を、読者を社会的成功者に導くために紹介しているのではありません。しかし、人生の王となろうとする者は、自己の感情にすら支配されてはなりません。王は、全てを支配するものなのです。そして、その支配の上に幸せを築き、保持することが王の役目なのです。

23.不安は現実のフィードバック

不安だから、外出できないのではない。
外出できないから、不安を作り出しているのだ。
「外出しない」という目的が先にあるのだ。

この言葉については、私は多少異論を持っています。

しかし、感情や言葉は、現状でなく私たち自身の希望、目指す場所への強いイメージ――自分には目指すべき場所があり、そこへ到達したいという確固たる認識――によって変わることは間違いありません。

強く幸せを夢見る者、自分を幸せだと信じて疑わない者は、「私は幸せだ」、と先に言います。幸運な人は、自分を不運だと言いませんし、幸せな人は、これから悪いことが起こるかもしれないなどとは決して口にしないのです。これは不思議なことです。

ネガティブな言葉を使う癖があるともしあなたが気づけるなら、言葉を変えてみましょう。「今日はいいことが起こるかもしれない」、「私は幸せになりたい」と、そう思っていなくても、日に一度は思ったり、言ったりしてみましょう。(余談)
「俺は神に愛されている」×
「俺は神に愛されている」が口癖の私の友人は、パチンコにいくら負けても、借金が膨らんでも、見事に結婚を決めました。私は仰天しました。ですが、彼がもし、くよくよして何も行動しなかったら、きっとこうはならなかっただろうと思ったものです。彼は2017年12月現在、こつこつと借金を返し続けています。そして、奥さんと小さなアパートで、幸せに暮らしています。

このアドラーの言葉では、不安を打破するのが先だ、ということになるのですが、現状を変えるのに、不安を先に打破するのは容易ではありません。というよりも、現状を変えるのが先ではないか、と思われます。そして、現状を変えるための第一歩は、他者であってもよいと私は考えます。

私は、不安で外出ができない場合は、いいことが起きるかもしれないとか、美味しいものを食べに行こうとか、嬉しいイメージをまず描き、それから外出のモチベーションを自らの中に創出するべきだと思います。

症状が病的である場合は、楽しいことを一緒にやるからと、迎えに来てもらうことも有効です。外出恐怖を抱えている人の多くは、仲間意識が欠乏しています。絶対に裏切らない仲間がいて、彼らがいつもそばにいてくれる、困ったときには助けてもらえる、そして、その仲間関係は温かい、と信じられる心の状態に導いてあげることが重要です。

真に孤独を好む場合や、極端な人間不信や強いPTSDの症状があり、長年引きこもりにあるケースなどでは、明らかにこのアドラーの言葉は当てはまりません。

24.感情で他者をコントロールしようとするのは幼稚だ

子供は「感情」でしか大人を支配できない。
大人になってからも感情を使って人を動かそうとするのは幼稚である。

あなたの職場に、あるいは近所に、感情を顕わにして、話し合いに応じない人はいませんか。怒鳴り散らして威圧して、あなたを屈服させ、服従させようと試みる人です。

上司とはいえ、人格的に優れていることを基準にして抜擢されることが、今の世の中にどれほどの割合であるのでしょうか。

悲しいことに、会社組織でも、非営利の機構であっても、それは同じです。そのために苦しむ人が、お金を稼ぐために精神を病む人が、たくさんいます。日本の社会が歪んできているのではないか、とすら思わずにいられません。

しかしだからといって絶望することもありません。幼稚さに、あなたが付き合わなければいいのです。職場を変えて、住む場所までも変えて、付き合う人も変えましょう。

「妻以外は全部変えろ」。そう社員に飛檄した、大企業の幹部がかつていました。この言葉は叱咤ではありませんでした。激励したのです。

変化を恐れない勇気で、幼稚な誰かから、あなた自身を守ってください。

25.理性で話し合うのが大人

嫉妬でパートナーを動かそうとすれば、いずれ相手は去っていくだろう。
大人なら理性的に話し合うべきなのだ。

前項の続きですが、感情では何のもめ事も解決はしません。

あなたがいる場所が、職場であれ家庭であれ、理性で話し合いができない場なら、そしてそのことにあなたが苦しみ続けているなら、そこはあなたがいるべき場所ではないかもしれません。

学生であったり生徒であったなら、すぐに場所を変えるのは容易でないことがあることが、私が心配することです。実際、そういう方をたくさん見てきました。犠牲者だとしか思えない、過酷な環境にさらされてきた人たちを。

感情に流されながら、その流れに抗うことを忘れた大人は、残念なことに、たくさんいます。家庭環境、夫婦関係、職場の人間関係、相隣関係、ありとあらゆる場所での負の連鎖は、そこから発生しています。

「理性的に話し合うべきなのだ」、そうアドラーは述べています。けれども、それができない場合はどうしたらいいのでしょうか。

逃げてください。あなたは、傷つけ続けられる義務などないのです。それに躊躇するなら、家であっても職場であっても、そこにいて、今の生活を続けることに何らかの未練があるのでしょう。しかし、あなたの新生活の扉を開くマスターキーは、実はあなたが持っています。

26.あらゆる行動に目的がある

彼氏に対しては甘えた声で。
配達員に対してはキツい声で。
人は相手と状況に応じて行動を使い分ける。
あらゆる行動に目的があるからだ。

店員や、配達員にきつい声を掛けられる人、威圧的な態度をとれる人というのは、食事を運んできてくれてありがとう、荷物を運んできてくれてお疲れさま、そういう思いを持たない人なのでしょう。

失敗したならまだしも、言われた側にしてみれば、これは大変悲しいことです。仕事とはいえ、頑張っているのに、仕事なんだからやって当たり前だと言われて、愉快に思う人はいないでしょう。

仕事ができることも、サービスを受けることも、お金を払う時でさえも、実はありがたいことです。そこで働き、努力する人が、目の前にいるからです。どんな職業に就いていても、彼ら一人一人が社会を支え、あなたがサービスを受け、働くための社会基盤を形作っている一員だからです。

あなたが才能に恵まれ、たいていの人よりも特定の分野で優秀な成績を収められるのならば、あなたの周囲が、あなたと同程度の能力の人ばかりでないことに、あなたは感謝すべきです。あなたよりも優秀な人に囲まれ、あなたの才能がくすんでしまったとき、あなたの優位性は煙のように消え去ります。

あなたよりも効率よく物事を処理できない人がいるおかげで、あなたは称えられ、必要とされることができます。称えられる者は、称えられたことへの感謝を持つべきです。

さて、思い当たる節のある方は、あなたのこれまでの行いを、勇気をもって恥じ、反省できるでしょうか。もしそれができなかったら、アドラーの言葉は、あなたにとって何の意味もないでしょう。

27.やりたくない

意識と無意識、理性と感情が葛藤する、というのは嘘である。
「わかっているけどできません」とは、単に「やりたくない」だけなのだ。

無意識にアクセスできるのは、唯一、意識です。私はアドラーの言葉すべてに、完全に同意しているわけではありません。長年培ってきた心の癖を直すのは、痛みを伴い、多くの人にとって容易なことではないでしょう。しかし重要なのは、心の癖を直すことは、不可能ではないことです。

言い訳として、あなたの子供、あるいは部下が「わかってるけど、できない」と言ったら、やりたくないんだな、と理解しても差し支えないでしょう。

ではどうやって、子供や部下にしてほしいことをしてもらうのかですが、上述したように、他者をコントロールすることは不可能です。コントロールするのではなく、別の対応策があります。それは、アドラーの言葉が後述しています。

28.言い訳

「無意識にやってしまった…」
「理性が欲望に負けて…」とは、自分が相手を欺くための「言い訳」でしかない。

欲望と理性と感情は、密接に関係しています。欲望は、理性と感情の両方を発生させます。

「無意識に」、という言葉は、確かに、言い訳としてよく聞くセリフですが、それは「言い訳」であって、正直な欲望の説明になっていない、ということをアドラーは言いたかったのかもしれません。

理性、欲望、無意識、感情、そのすべてがあなた自身です。

言い訳すること自体、あまり称賛されない行為ではありますが、カウンセリングを行う場合は、理性、感情、欲望、無意識、そのどれも、「私」に置き換えて聞きます。

「私が、私に負けてやってしまいました」と。

29.感情の排泄物

怒りなどの感情をコントロールしようとするのは無駄である。
感情は「排泄物」なのだ。
「排泄物」を操作しても何も変わらないだろう。

アドラーは、この言葉によって怒りを顕わにして構わない、と言ってはいないことに注意が必要です。

顕わになった怒りという感情をどうにかするのでなく――出力された反応に注目するのでなく――なぜ怒りが発出することになったのか、心の中を探れ、と言っているのです。怒りをぶつけるサンドバッグを買うのでなく、怒りを生じさせない方法を探れと。

心は、コンピュータと似て(実際には、コンピュータが、人間に似せて作られたのですが)、入力と出力を繰り返します。この出力が感情であるわけなのですが、出力されるものの種類が過激だったり、極めて弱かったりした場合、その変化が望ましいということになるわけです。それはとりもなおさず、心の在り方の変化を促していくことに他なりません。

そしてそれができるのは、実は本人だけなのです。

30.ライフスタイルは人生の設計図

ライフスタイル(=性格)とは、人生の設計図であり、人生という舞台の脚本である。
ライフスタイルが変われば、人生はガラリと変わるだろう。

言うは易し、ではありますが、そういうことです。

このあとのアドラーの言葉を参考に見ていきましょう。

31.性格を変える方法は、「これ」だ

「私は○○である」
「世の中の人々は○○である」
「私は○○であらねばならない」
性格の根っこには、この3つの価値観がある。

この3つの価値観は、必ずしも必要のないものです。冒頭で述べたように、良し悪しの判断は、できれば死ぬ間際までしないことをお勧めします。

具体的には、私にも誰にも罰は必要ないし、生き抜くことに意味がある、と信じることをお勧めします。

生きること自体に絶望している方へ

「生まれ変わり」を信じよう×
私は、「もう生きていたくないんです」、という方に対しては、生まれ変わりはきっとあるよ、とお話しすることにしています。物理学では、エネルギーは決して失われないことが証明されており、命もエネルギーの一形態だとするなら、命すら、失われないことになるからです。
また、「私はどうして、こんなに苦しまなくてはならないのでしょう」とおっしゃる方には、苦しみ自体が、あなたにとって必要なことなのですと申し上げています。これは容易に理解しにくいことであろうと思いますが、苦しみが、あなたの人生にとって、次の大きなステップに必要不可欠であることがままあるのです。
かくいう私にさえ、自死すらも頭をよぎる不運、過酷な運命に打ちひしがれたことがあります。私よりももっと辛い目に遭っている人もまた、いることでしょう。ですが、私には、苦難を乗り越えようとする人間の姿勢こそ、ドラマチックで人間らしく、最も美しく嬉しい涙を流せる出来事であること、憲法や法治が、人々の幸福を守るために、長年の英知が累積して出来上がっていることなどを見て、愛を分け合い、共有することが、人として生きる唯一の正当な道であると信じています。

32.ライフスタイル

人はライフスタイルを10歳くらいまでに自分で決めて完成させる。
そして、それを一生使い続けるのだ。

決して推奨されませんが、ときに子供は火遊びをして、火の熱さ、危険さを学ぶことがあります。その代償としてやけどを負い、二度とすまいと学びます。

人との関係も同じで、誰もが、ここまでやると皆に嫌われるとか、これ以上は耐えるべきではないとか、たくさんの人間関係の中で、幼少期から人格形成していくのです。

共感力が強い人も、逆に鈍感な人もいますが、精神を病まない程度に、人は人間関係で悩むべきです。しかし、協調しておきたいのは、精神を病んでしまうこともまた、決して悪いことではありません。適切な治療が重要であることはいうまでもありませんが、現代社会において、精神を病まないことは、ある意味異常です。

教育や、社会単位が家族から別の形態にアップグレードされるまでは、社会病理は決してなくならないでしょう。あなたが悩んだり、病んだりしているなら、それは正しいことで、合理的で、許容できることなのです。悩むこと自体に悩まないでください。

33.色眼鏡

ピンク色のレンズの眼鏡をかけている人は、世界がピンク色だと勘違いをしている。
自分が眼鏡をかけていることに気づいていないのだ。

この色眼鏡というのは、言い換えれば、自分にとっての物差しから外れた人を見つける特性のことです。

自分にとっての物差しを、自ら見つめ直す姿勢が、極めて重要です。これはどんな社会的立場の者にも言えます。

34.

使い続けたライフスタイルが支障をきたしても、人はそれを変えようとはしない。
現実をねじ曲げてでも、人は正しいと思い込むものである。

犯罪を犯す人の多くと、大組織の幹部、政治家たちは、自分ではなく現実をねじ曲げ、自己にとって物事を都合の良いように解釈し、既成事実化する傾向にあります。これを修正するのはたやすいことではありません。

中国は、領土を拡幅するため国家でこれを行っています。しかし、多くの物質を手に入れることが富であり、力であるという考え方を、人類は何千年にもわたってしてきました。

それは国家の単位でも、個人の単位でも同じです。私もあなたも、見たいものだけを見、見たくない現実は見ないという選択を、無意識に行っています。

性別も大いに関係しますが、誰しも基本的には、誰からも好かれ、誰からも必要とされ、トラブルに関わらない自分を標榜します。しかし、目の前にたった一人気に入らない人がいたとき、それへの対処が、人によってたいへんなバリエーションがあります。

ある人は無視しようとし、ある人は、徹底的に弾圧します。ある人は病み、ある人は場所を変え、ある人は犯罪に走ります。

国家であれ個人であれ、モラルより利己特性(我欲)を優先させることが、これらの根底には横たわっています。

現実をねじ曲げるな

アドラーのこの言葉は、他者を理解するとき、自分の中にも同じ特性が確かにあり、他者もまた、同じ特性を持つからこそあなたにとって理解しがたい行為に及ぶことがある、と教えてくれています。

現実をねじ曲げず、正直でいること。それこそが、あなたの心を守る、最強の防壁となってくれるでしょう。

知性とは、利己性よりもモラルを優先しようとする決意であり、その選択を日々続けられることが、理性です。

35.反面教師

ガミガミと叱られ続けた者が暗い性格になるとは限らない。 親の考えを受け容れるか、親を反面教師にするかは、「自分の意志」で決めるのだから。

親を(盲目的に)教師として受け入れた人を、いわゆるマザーコンプレックス、ファザーコンプレックスと名状する場合があります。

教師として受け入れるか、反面教師とするかを、人がどういう基準とタイミング、性格的特質で決めるのか、私はいまだに答えを見いだせずにいます。

ある50歳代の女性に、毒親という言葉があるんだよと伝えたところ、毒子という言葉はないの、という返答が返ってきて、笑ってしまったことがありました。

親も子も、互いに悩むものです。悩むことは、当たり前のことで、なおかつ、よいことです。

36.コモンセンス(=モラル、共通感覚)

幸福な人生を歩む人のライフスタイル(=性格)は、必ず「コモンセンス(共通感覚)」と一致している。
歪んだ私的論理に基づく性格では、幸せになることはできないだろう。

他者と自分、そのどちらの利益を優先させるかという選択に迫られたとき、勇気をもって、他者を洗濯することが、基本的なコモンセンスです。

あなたの悩みを、他者の悩みに寄り添うことに置き換えたとき、あなたの不幸は、幸福に取って代わり始めます。

37.感情の発生源

「怒りっぽい性格の人」など存在しない。
「怒りという感情をしょっちゅう使う人」なのだ。
生まれ変わる必要はない。
感情の使い方を変えればいいだけなのだ。

アドラーのこの言葉には、そんなこと言ったって難しいよ、という意見を持つ人が多いのではないでしょうか。それでいいと思います。これが皆簡単にできたら、ほとんど犯罪のない世の中になるでしょう。

ストレスがあるとき、感情に目を向けるのでなく、あなたの心のどこから感情が湧き上がってくるかに、少しずつ焦点をずらす努力をしてみてください。これは、歩みは遅くとも、いつか必ずできる日が来ます。ダイエットで身体を引き締められるのと同じように、心や精神もまた、引き締め、鍛錬することができます。

あなたにストレスを運んでくる外の世界と、そのストレスを発生させる外部要因にではなく、ストレスを自分がどう解釈しているかを、自分の内側に求めてみて下さい。目を、外でなく、内に向けてみてください。

それが、精神医療です。精神医療者は、その手助けをしているにすぎません。

余談
神が傷を癒し、医者が医療費を取る×
誰が言ったか忘れてしまいましたが、「神が傷を癒し、医者が医療費を取る」という言葉があります。この場合の神とはあなた自身のことです。つまり、あなたの精神であり、それは、私の個人的見解では、いわゆる神と同義です。私は宗教者ではありませんが、人生とは、神が細かく分かれて旅をしているに過ぎない、と考えています。

38.性格は変えられる

自ら変わりたいと思い努力をすれば、ライフスタイルを変えることは十分に可能だ。
性格は、死ぬ1~2日前まで変えられる。

このアドラーの言葉に、私も勇気づけられたものです。あなたもきっとそうでしょう。

この信念なくして、精神医療は行えません。また、あなた自身がそう信じるだけで、医者はいらなくなることさえあるのです。

悪いことでなく、不幸でなく、善や、幸せを信じてください。

あなたは、あなたが信じ、願ったものに姿を変えます。

39.対人関係が、全ての悩みの種

全ての悩みは対人関係の課題である。
仙人のような世捨て人さえも、実は他人の目を気にしているのだ。

人間は社会的な動物であり、他者との関わり合いの中でだけ、その成長を見出せます。いわば、あなたという精神の足場は、他者との相対的な位置や場所に築かれるのです。

余談

神の孤独×
あなたも含めた宇宙に存在する構成物(=神)は今も、たった一人で、完璧な存在です。完璧な存在があるとき、不完全で、ばらばらで、苦しみ、目標に向かって歩んだりという課題が強制された、理不尽な存在が必要でした。それが私たちです。完全な存在は、不完全な存在と対称でなければならないのです。私たちが心の底で希う、完全な存在になりたいという願望は、そういった存在理由のためです。

40.愛を求める言葉

「最近ウツっぽいんです」
「忙しくて休みが取れないんです」
内面の悩みに見える言葉も、すべて対人関係の問題に起因している。

愛が欲しいなんて、おいそれと人前では言えないという人が多数派でありましょう。

しかし人々は、あらゆる言葉の中に、その願望を隠しています。文字通り、隠すのです。

上司、親、あらゆる指導者は、薬や休暇やおもちゃを与える前に、居場所と愛を与えることこそ重要であるという認識に転換する必要があります。

41.神の孤独

悩みをゼロにするには、宇宙でたった一人きりになるしかない。

実は、あなたもかつては、宇宙でたった独りきりで、何の悩みも持たぬ存在でした。といっても、これを信じる人は稀です。稀であっても、何も悪くありません。

人生の悩みを解決しようとすることは、人生そのものであり、自己の存在意義を見つける一種の旅にほかなりません。

ところで、魔法の言葉があります。掃除するとき、「順風満帆」と心の中で唱えながら、雑巾や箒を動かす癖をつけてみてください。掃除が嫌いなら、箸を持つ瞬間、パソコンに電源を入れる瞬間、テレビにスイッチを入れる瞬間に、この言葉を思い出す(思い出すだけで結構です)癖をつけてみてください。強いうつや神経症、躁鬱を持つ人、引きこもりの人、外出恐怖のある人には、特効薬になるかもしれません。

42.3つの課題

人生には3つの課題がある。
1つ目は「仕事の課題」
2つ目は「交友の課題」
3つ目は「愛の課題」
である。
そして後の方になるほど解決は難しくなる。

前項で述べたとおり、人との関わり合いが、あらゆる悩みの種である、とアドラーは言っています。

愛とはすなわち他者への親切、自分の利益の他者への分配のことです。愛の課題は、特定の異性(または同性)に捧げるいわば利己的な愛になりがちなので、最も難しい、問題を生じさせやすいとアドラーも考えていた、と私は解釈しています。

愛は、理想的には、万人に平等に分配されるべきです。しかし恋人への愛となると、それが他の他者への愛を減らして、その特定の相手に集約させることを、愛と勘違いしやすくなるのです。これは、パートナーと、万人への愛こそが幸福への唯一の道であるという感覚を共有していないと達成が困難になりがちです。

ただし、聖人のように愛を平等に分配することを、失敗なしに達成できる人はまれです。失敗を重ねながら、3つの課題に誰しも挑戦しているのです。

43.「~してくれない」は利己的な発言

あなたのために他人がいるわけではない。
「○○してくれない」という悩みは、自分のことしか考えていない何よりの証拠である。

このアドラーの言葉は、私がもっとも受け入れにくい言葉の一つです。

私が我欲から完全に解放されていないことを示す、顕著な証左なのかもしれません。

「あなたのために他人がいるわけではない」が真実だとすれば、「誰かのために私がいるわけではない」ことが逆説的に成り立ってしまい、これでは愛を分配する必要性がなくなってしまうのではないか、と思われます。

究極的には、他者のために生きることが、自分にとっての最大の幸福となることに気づき、実践していくことが幸福への王道であると、どんな哲学者も宗教も述べています。この見地に立ったとき、初めて、ただ、あなたが与えなさい、という意味のこのアドラーの言葉が理解できます。

この言葉に悩まぬ人は、1%に満たないと私は思います。しかしながら、目指すべきは、この言葉をすんなり理解できる精神状態であるということは、心に留めておいてよいと思います。

44.逃避としての中毒

交友や愛の課題における失敗から逃げるために、必要以上に仕事に熱中する人がいる。
そういう人は週末の休日さえも恐れるのだ。

仕事、アルコール、ドラッグ、セックスといったものに、ときに人は中毒になることがあり、それは耐え難い苦しみから逃れる方便である場合があります。

ただしこのことは、どんな人にも中毒と名状しないレベルでみられることなので、偏見を持つのは推奨されません。

中毒は、趣味に熱中しているあいだ、日々のストレスからあなたの心が解放されるのと動機が同じです。

45.愛の課題

「愛の課題」とは、異性とのつきあいや夫婦関係のことである。
人生で一番困難な課題であるがゆえに、解決できれば深いやすらぎが訪れるだろう。

ここでいう愛の課題は、上述した異性への愛の課題のことです。

あなたに恋人や伴侶がいるなら、どんな時に、その人があなたに安らぎをもたらしてくれるか、よくおわかりでしょう。

仲間との連帯感があなたの居場所となり、やすらぎをもたらしてくれることと、パートナーと共有することによって得られるやすらぎが同種であれば、この愛の課題は、課題とはなりません。別種であれば、問題が生じやすくなります。

全く同種であることはあり得ないのですが、そのベースが、同種である必要があります。すなわち、あなたの利己性を愛として相手に配る姿勢です。そして、利己性を愛に変換することこそ、あなたの真の幸福であることをはっきりと認識したうえで、日々を過ごすことです。

46.愛の悪しき例

配偶者を従わせ、教育したいと思い、批判ばかりしているとしたら、その結婚は決してうまくいかないだろう。

これは前項の反例です。

男性はパートナーに、女性は子供に対してこの傾向があるように思われます。

支配された者は支配し返したがり、愛情に不足したものは愛を奪おうとしますが、この心の癖を直すことは可能です。

相手を屈服させようとふるまったり、愛を寂しさのアピールで奪おうと試みたりすることは、本人は苦しみながらも、それをやめられないでいることがほとんどです。

心の癖を直すことは、痛みを伴います。しかし、子供が泣きながら大人になるものです。それを先延ばしにしてしまった人は、大人になった今、それを味わい、乗り越える必要があるのです。

これができない大人は、本当にたくさんいます。

47.愛を求める子供の戦略が、人格となる

子供にとって家族は「世界そのもの」であり、親から愛されなければ生きていけない。
そのための命がけの戦略が、そのまま性格の形成につながるのだ。

これは前項の続きです。

ところで、あなたの心の寂しさを埋める愛とは何でしょうか?

あなたにやさしく触れる手、あなたの心の苦しみ、辛さに触れる心の手のことではないでしょうか。

もしそれが欲しいなら、あなたが、誰かにその手を差し伸べてあげてください。そうすると、あなたにその手が差し伸べられます。

48.兄弟の得意分野

長男は勉強、次男は運動、末っ子は読書。
きょうだい間で得意分野が異なるのには理由がある。
それぞれが違う分野で認められようとするからだ。

私は、この考え方を誰かに当てはめたことがありません。

49.長子の帝国の奪還

第一子は、初めての子として両親の愛を独占する。
しかし、第二子の誕生と共に突然「玉座と特権」を奪われるのだ。
その後、かつての「帝国」を取り戻そうとするだろう。

第2子以降が世渡り上手になるというステレオタイプが真実かどうかを、私は実証していません。

50.中間子は競争的、攻撃的?

中間子は親の愛を独占したことがないため、競争的、攻撃的で、すねた人になりがちだ。
「自分の人生は自分で切り拓かなくてはならない」と思う傾向にある。

第2子以降の方が、幼少時代の写真が長子よりも少ない、とおっしゃっていたことはありました。

第何子であっても、形成された人格は変更が可能です。

51.末っ子は甘えん坊?

末っ子は甘やかされて育ちがちだ。
そのため、自分では努力をせず、無力さをアピールして人にやってもらおうとする「永遠の甘えん坊」になる傾向がある。

末っ子の方が、この言葉を読んでショックを受けてほしくないな、と思います。

害のない甘えん坊がいてもいいし、どんな年齢からも、自立するための努力を開始することができるからです。

血液型もそうですが、ステレオタイプに惑わされるのは、自制しなければなりません。

52.一人っ子の傾向

一人っ子は、親の影響を多く受ける。
また、末っ子と違い、きょうだいがいないため、人間関係が不得手な人が多い。

一人っ子は少なくありません。

人は人との関わりの中でだけ、相対的な自分の足場、人格を作ります。理論的には、兄弟がいないのですから、親の影響を強く受けるのは間違いありません。

宮崎駿アニメの風の谷のナウシカは、平安時代の短編、堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)に登場する、蟲愛づる姫という、成人しても化粧もせずに毛虫を可愛がる女性がモデルなんだそうです。

私は、孤独だと漏らす人を見るたび、この人物や、アフリカの大地で動物を愛し、研究に没頭する動物学者のことを思い出します。人とのかかわりが少なくとも、魅力的な生き方に思えるからです。

53.親の権力を手中にしようとする子供

身振りや話し方が親に似るのには理由がある。
子供は親を真似ることで親の権力を手に入れようとし、結果として本当に似てくるのだ。

私は、腕組みをして考え込む仕種が、親戚や親に大変似ており、一時期恥ずかしく思ったことがありました。理性的によく考えてみれば、恥じることでもなんでもないので、気にしなくなりましたが。

怒鳴る親の子は、怒鳴る癖を学びます。くよくよする親の子は、くよくよすることを学びます。「学ぶ」という言葉の語源が「真似ぶ」であることは、こういうことからも納得できます。

親と反発できることは、ときには正しい人格形成にとって、大変重要であることがあります。

54.全面服従 or 全面反抗

子供は両親が持っている価値観を無視することができない。
全面服従して受け容れるか全面反抗するのだ。
警察官の子供なのに非行に走ることがあるのは、それが理由である。

一説には、ゴキブリを嫌うかどうかも、親の価値観によるものであるそうです。

前項でも触れましたが、親に反抗することは、ときにはその人にとって必要なステージです。

ときには、子が悲しい出来事の末に親と離れて暮らすことは、子にとって、全面反抗が成熟して一部反抗と自立というステージに歩を進めたことを意味し、正当かつ恒常的な変化の結果であることに、気づく必要があります。

55.レッテル

子供は親が張ったレッテル、たとえば「しっかりした子」「甘えん坊」「おてんば」「恥ずかしがり屋」などに対して過剰に応えようと努力をする。

「強い」、「しっかりした」、「優秀な」、「やさしい」などの、いわゆる社会的に身を持ち崩すことと一見遠いと思われがちな形容詞は、安らかに生きることにとって害になる場合もあります。

多くの親は、「幸せな」という形容詞を子供に対して使いません。これは、大変な過ちです。「強くてしっかりして、やさしいけれど不幸せな」子供になってしまう危険性をはらむ育て方だからです。

いわば、オールマイティな「幸せな」という形容詞を、親はもっと多用すべきであると私は思います。

「幸せ」で、「愛すべき」我が子、と。それ以外の価値は無用です。

56.アドラー派カウンセラー

アドラー派のカウンセラーは、家族構成と子供時代を把握することで、現在の「性格」を明らかにする。

私はアドラーはカウンセラーではないので、この言葉に関してはノーコメントです。

57.なぜ、子どもや部下を「褒めて」はいけないのか?

叱られたり、ほめられたりして育った人は、叱られたり、ほめられたりしないと行動をしなくなる。
そして、評価してくれない相手を敵だと思うようになるのだ。

これは確かに真理かもしれません。

ここから先しばらくは、アドラーのこうした子供の育て方に関する言葉が続きますが、アドラーは高名な心理学者ですから、たくさんの実例を見たうえで、アドラーが発見したことどもであることを念頭に、見ていきましょう。

この言葉に思い当たる人は、自己評価とは自分自身の、自分のための評価であることに、考えを改めることが有効である場合があります。

私はかつて、ある組織の構成員(上司)から、「あなたを判断するのは、他者だ」と言われたことがありました。この言葉ほど、私たちを幸せから遠ざける言葉はなかったと思います。

あなたが幼いころから、親の価値観に合わせる努力をどれだけ重ねたか、またそれを我が子に繰り返してはいないか、もう一度考えてみてください。

あなたも自由、そして、あなたの子も自由です。

58.叱られると、子供は活力を奪われる

叱ると一時的には効果がある。
しかし、本質的な解決にはならない。
むしろ、相手は活力を奪われ、ますます言うことを聞かなくなるだろう。

この言葉には注意が必要です。絶対に叱らないで子育てができる人がそうそういるはずはないと私は実体験から思います。

しかしながら、勉強をしたがらないことをただ叱るだけで解決できると思うことが危険である、とこのアドラーの言葉を解釈することは可能でしょう。

子育てとは何かについて考えなければ、この答えは出ません。子育ては義務ではなく、そのかわり、あなたの人生と同義と言ってもよいくらい、密接なものです。

子育ては、子供にとっての最初の人付き合いがあなたとともになされることであり、あなたが、立場の弱い者にどういう態度で臨むかが、試されることでもあります。

子育てのことで何かの機関を訪ねる人の多くは、子供をどうにかしてコントロールしようとし、その試みに失敗した末に足を運んでいるのです。

59.話し合いで信頼関係を築く

間違いをわからせるには、親しみのある話し合いをすればよい。
大切なのは、それができる信頼関係を築くことだ。

これは子育てに限ったことではありません。問題行動という言葉の定義にもよりますが、親友との間に、小さな裏切りがあっても互いに許すことができることと似て、信頼関係が構築された間柄には、問題行動はその定義を失うことがままあります。

あなたよりも未熟な精神の持ち主、例えば子供があなたを裏切ったとき、より成熟した精神であるあなたはどのような対処をすべきでしょうか。その責任を追及し、相手に罰を与え、罰を恐れる心によって二度とその行動を起こさせないようにすることは適切でしょうか。

あなたがまず、未熟な精神を信頼しましょう。未熟な精神が、全てを完璧にこなせるはずがない、とあなたがはっきり認識でき、大きな落ち着いた心でいられないとき、あなたの精神もまた、未熟である場合があります。

究極的には、未熟な精神と、より未熟な精神との人付き合いが子育てです。しかし、より未熟な精神に完璧を求めることが合理的でないことは、おわかりでしょう。

信頼関係

信頼とは、問題行動を起こすかもしれないと常に相手を疑いながら築く関係ではありません。問題行動を起こしても、私は許すことができる、互いにそれを乗り越えられると信じて疑わない姿勢のことです。

「ダメな子ね」、「なにやってんだ!」と親が子に対して言う声が、街中から聞こえて来たときが、私のもっとも悲しい時間のひとつです。

そのような親たちは、幼少期に同じセリフを必ず言われています。

60.悪い習慣のトレーニング

問題行動に注目すると、人はその問題行動を繰り返す。
叱ることは、悪い習慣を身につけさせる最高のトレーニングなのだ。

少々、例としては乱暴にすぎるかもしれませんが、犬をしつけるとき、「~すると人間は喜ぶのだな」と犬にわかってもらうようにします。やってはならないことをしたときに罰を与えすぎると、互いに不幸せな関係に、犬と人間も陥ってしまうのです。犬は凶暴になり、ますます飼い主の言うことを聞かなくなります。

反対に、喜ばしいことをしてくれたときにご褒美を与えるようにすると、褒美が欲しくて犬は従順になります。

人間関係も、これと大変似ています。喜んでもらえていると認識があるとき、人は心地よいものです。わざわざそれを破壊するために、問題行動を積極的に起こす必要がなくなります。

こうはいっても、子育てはやることが多すぎて、犬のしつけとはわけが違いますから、多くの親は悩むわけです。

楽観主義の親は、医療機関にはほとんど訪れません。

叱る代わりに

アドラーのこの言葉から学ぶとしたら、やはり変わるのは親の方です。

叱る代わりに、「この子はやがては、自分の責任を自分でとる日が来る。その日になっても、その日を過ぎても、互いに幸せでいよう」とまず思ってみることが、第一歩である気がします。

「何してるの!」→「どうしてそんなことしたの?」

「勉強しなさい!」→「どうして勉強しないの?」

「片付けなさい!」→「お母さんが片付けてあげました。片付いた部屋っていいでしょう?次からそうしてくれると嬉しいな」

61.あなたの子供は何ができている?

他人と比較してはいけない。
ほんのわずかでも、できている部分を見つけ、それに気づかせることが重要だ。

「出来ない子!」という台詞は、成人した後まで、子供は覚えていたりします。

よくできたじゃないか、とか、まあ、頑張ったよな、とか、そういう台詞は覚えていたり、後々、あの時こう言ってくれたよね、なんて子供は言ってくれないものですが…。

散々できの悪い子だと言われ続けた子は、たった一つ親が喜んでくれただけで涙することもあります。

子供は、どんなに虐げられても、お母さんとお父さんが大好きなのです。

62.失敗は変化と成功のもと

人は失敗を通じてしか学ばない。
失敗を体験させ、自ら「変わろう」と決断するのを見守るのだ。

成績は振るわずゲームばかりしている子供が、受験に失敗して「変わろう」と思うかどうかはわかりません。

ただし、その子が、社会不適応であるかどうかは全く未知数であることを、ぜひ知っていただきたく思います。

63.結末の体験

罰を与えるのではない。結末を体験させるのだ。
子供が食事の時間になっても帰ってこなければ、一切叱らずに食事を出さなければよい。

映画やドラマでは、「今夜は食事抜きよ!」とお母さんが叫ぶシーンがあったりするものですが、現代日本の親は、そういうことはあまりしないようです。

未成年の子供がほかの子供を傷つけたり、大変なことをしでかしてしまったときは、親が代わりに謝る必要がときにはあります。ただし、それを絶対に回避することは不可能です。やんちゃな子供もたくさんいますし、おとなしい子もいます。

親と一緒にいられて幸せであると子供が認識している場合は、失敗は、いつか笑いのネタになり、次の子育てのよい教材になるでしょう。

64.子の代弁は危険

「この子は言葉を覚えるのが遅いので…」と母親が子供の通訳を買って出る。
すると子供は、自分で話す必要がなくなり、本当に言葉が遅くなるだろう。

上述の、レッテル貼りと似た注意点を持つ言葉です。

たとえば「勉強ができなくて」という言葉の裏には、「(この子は勉強ができるはずなのに)、勉強ができなくて」という本音が隠されていたりします。

「この子はきっと他の分野では才能があるに違いないのに、勉強はどうも不得手なようで」なら、子供の未来にはより多くの選択肢が与えられることでしょう。

「この子のできないところはここ!直してあげなきゃ!」と毎日考えながら子育てするより、「この子の得意なことは何かな?一緒に考えたいな」のほうを、私はお勧めします。

65.人の育て方に迷ったら

人の育て方に迷った時は、自分に質問をするのだ。
「この体験を通じて、相手は何を学ぶだろうか?」と。
そうすれば、必ず答えが見つかるだろう。

これは大変有用で、勇気づけられる言葉です。

私はこの言葉を親ばかりでなく、人を率いる立場にある人に知っていただきたいと思います。

「あいつ、本当に使えない」、「ダメな子!」そんな言葉が横溢する社会は、極めて未熟です。

66.与える

自分だけでなく、仲間の利益を大切にすること。
受け取るよりも多く、相手に与えること。
幸福になる唯一の道である。

上述したことでもありますが、他者のために生きられる人は幸福です。

昇進のために部下の功績を横取りする例は、社会にはごくありふれているように見受けられますが、それがモラルに反することを、人類の善性は知っています。

私は、孤独や孤立は必ずしも悪いことだとは思っていませんが、利益や愛を配れる人は、上司であれ、家庭内であれ、愛されます。

他者を守ることによって、他者から守られるのです。

幸福とは

このサイトでは、幸福を、他者から大切にされ、自分自身も大切にできること、その二つが心地よいこと、定義します。

他者から奪う者は他者から大切にされません。自分を大切にできない者は、他者を大切にはできません。もしあなたがそのような状況にあるなら、まず、何かを誰かに与えることです。

優しい言葉を与えることから、始めてみましょう。

67.見返りがなくてもあなたから

誰かが始めなくてはならない。
見返りが一切なくても、誰も認めてくれなくても、「あなたから」始めるのだ。

前項の続きですが、あなたがまず、優しさを配ってください。

優しさは、愛であり、幸福の欠片です。

お金と同じように、幸福の欠片をあなたが配り、そして世界中からその欠片をあなたが受け取ります。

ビジネスも同じで、利便性も究極的には愛であり、それを多く配る者が、もっとも大きな利益を得ます。利便性の副産物として、真の経営者は金を得るのです。この考え方が逆転すると、経営者ばかりでなく、従業員に悲劇をもたらすことがあります。

68.すべての困難からあなたを解放する感覚

「他者は私を援助してくれる」
「私は他者に貢献できる」
「私は仲間の一員である」
この感覚が全ての困難からあなたを開放するだろう。

他者のために積極的に自己の利益を犠牲にできるようになるには、この言葉のような認識が必要でしょう。真に幸福な者にとって、他者への奉仕は、自分にとっての喜びと同義であるからです。

しかし仲間がいない場合はどうしましょうか。そのような悩みは非常に多いのが実情です。しかし私は、孤独だと言う人ほど、真に誠実で、嘘を嫌い、真っ直ぐに生きているように、多くの実例を見て思うようになりました。

世渡り上手な人は、小さな嘘で、ときには実に大きな嘘で、自分や他人を瞞着できる人のことを言うのではないか――私はこの実社会のそのような現実を、大変憂慮しています。組織に属した人間は、その者のずるさ、弱さなどを増長させることは、ほぼ事実です。つまり、お金を稼ぎ、家族を養っている自分と言う役割のために、人はどこまでもずるくなれるのです。

真の仲間は、たった一人でも構いません。仲間がもし一人もいないと考えるなら、あなたは天才かもしれません。

苦痛だけがあなたの人生を支配していたとしても、その苦痛を味わうこと自体に、必ず意味があります。苦難のさなかでもがき苦しんでいるあなたは、その苦しみを絶対に投げ出さないでください。

69.苦難に真っ向から立ち向かうという、幸福になるための妙法

自分のことばかり考えてはいないだろうか?
奪う人、支配する人、逃げる人、これらの人は幸せになることができないだろう。

人間というのは、自分のことばかり考えるものです。衣食足りて栄辱を知る、という言葉もあります。この言葉は、なにも着る服と住む場所に限ったことではありません。

あなたの周りに、都合が悪くなると怒鳴って話し合いをせず、いつも命令ばかりというタイプの人間はいないでしょうか。そのような人は、たいへん飢えている人です。愛や、自己評価に飢えているのです。

現代の精神医学が、愛の正しい認識とその分配法を学び、自らによる自己評価を適切に醸成していくことが、実は投薬よりも有効な精神健全化法である、という見地に立っていないことを、私は悲しく思います。

精神薬理学が、精神と気分をコントロールできるという考え自体が、私は大変危険だと考えています。

70.居場所がないことからの逃避

人は居場所がないと感じると精神を病んだり、アルコールに溺れたりする。
他者に貢献することで居場所を確保すればよい。

他者への貢献とは、正しい愛の分配法であり、愛とは、自分よりも他者の都合を優先させ、それを自らの喜びにできることです。

究極的には、愛は、分け隔てなく万人に向けられなければなりません。恋人や家族に特に手厚く分配される愛は、真の愛ではありません。

しかしながら、それらが今すぐにできなくても、焦らないことです。あなたがなすべきことをなしたときに、そこへ勇気をもって進みたくなる時期が、適切な時期にあなたにも訪れます。

71.失敗と敗北こそ人生

「仕事で敗北しませんでした。働かなかったからです」
「人間関係で失敗しませんでした。人の輪に入らなかったからです」
――彼の人生は完全で、そして最悪だった。

これは極端な例ですし、最悪かどうかはわからない、と私は思います。この言葉通りに実践している人は、私はついぞお目にかかったことがありません。

長年引きこもり状態となっている人でさえ、人間関係に過去に手ひどくつまずいていたからこそ、その状態になっているのが常です。

幼少期に、繊細な精神の持ち主が、些細なことで孤立させられたとき、容易には立ち上がれないほどの心の傷を負う例があります。それがきっかけで引きこもっているとしても、自殺せずにいるなら、生きることを果敢に選択してきた、と見るべきです。

元来、生きていることは、自死への誘惑と戦い続け、勝利してきたと言えなくもありません。

人間というのは、寿命が来るまでただ呼吸し続け、苦しみ抜くだけの人生であったとしても、決して無価値ではないのです。

72.幸福追求権の行使

相手の権利に土足で踏み込んではならない。
権利を尊重し、自分で決めさせるようにすれば、人は自分を信じ、他人を信じるようになるだろう。

この言葉は解釈が難しいのですが、法律上許されている範囲において、自由を行使する全ての選択の権利、と言えるのではないでしょうか。

憲法第十三条にによって定められている幸福追求権は、本来親子であっても侵害することはできません。人として生まれた以上、幸福に生きる権利を誰もが享持しているのです。

現代日本においては、上司であろうと親であろうと、誰一人支配することはできないのです。

73.感謝される者のモチベーション

「よくできたね」とほめるのではない。
「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝えるのだ。
感謝される喜びを体験すれば、自ら進んで貢献を繰り返すだろう。

私は、よくできたね、立派だよ、という言葉をよく使います。たとえば、頼んだ仕事を思いのほか早く仕上げた人には、よくこの言葉を使います。仕事を称えることも、職場のモチベーションを高めるためには、非常に有用な潤滑油となると思います。

この言葉を愚直に実践することが正しいかどうかは、疑問に思います。ただし、ケースバイケースではありますし、成人に対して「よくできたね」という言葉が失礼にあたる場合もあることには注意が必要だと思います。

74.誰かを喜ばせることが、真の幸福である

苦しみから抜け出す方法はたった一つ。
他の人を喜ばせることだ。
「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。

この言葉は本当にその通りだと思います。

「ありがとう」「おつかれさま」という言葉は交換すれば交換するほどお互い気持ちよくなりますし、なにしろお金がかかりません。

たとえば会社組織なら、従業員のミスを責め、罰を与えることは、恐怖で従業させることにほかなりません。

従業員に積極的に仕事をこなしてもらい、かつ健全なやる気をキープしてもらうために、「今日も頑張って仕事をしよう」よりも、「今日も仲間に会いに行こう」と、朝顔を洗う時に思える職場を、私は目指しています。

禁止していることは仕事のミスではなく、他者への悪口ただひとつです。

75.異なる意見、異なる形

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。
違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ。

異分子を排除する組織は健全ではありません。異なる意見にとどまらず、能力の差についてもあてはまることです。

現代社会において、または資本主義経済において競争はなくてはならないものですが、マイノリティの排除は競争とは全く別物です。

ある生態系が、同じ特性を持つ種族だけで構成されると絶滅しやすくなるのと同じであると思います。

76.永遠に不完全、これ完成なり

自分の不完全さを認め、受け容れなさい。
相手の不完全さを認め、許しなさい。

これは実践が最も難しいアドラーの言葉のうちの一つです。私も、これを完全に実践できているとは言い難いのが正直なところです。

人は、完全な伴侶を求めないし、完璧な会社のみを受験しません。また、レストランで非の打ちどころのないサービスしか受け入れないということもないはずです。アドラーのこの言葉の意味は、それらの延長線上にあると思います。

私や、あなたの人生ですら、完璧ではないはずなのですから。

77.裏切られない関係だけを求める人生は、幸福とは違う

「信用」するのではなく「信頼」するのだ。
「信頼」とは裏付けも担保もなく相手を信じること。
裏切られる可能性があっても相手を信じるのである。

この言葉で真っ先に思い浮かべるのはお金の貸し借りでしょう。そして私にも、裏切られた経験が確かにあります。

アドラーのこの言葉には、何のために、という記述がなく、仮に、自身の幸せのために、とするならば、裏切られた経験を一度はするべきだろうと思います。

裏切られたときに、自分の心がどう変化するかを見つめることができるからです。お金のことを真っ先に思い浮かべるのは私が単に俗悪なだけかもしれませんが、これが成長であっても、同じことです。

相手の成長を願って言葉をかけたり、信頼して育てても、望みどおりの結果にはならないことはままあります。このとき、それを裏切りと感じるなら、望みどおりの結果が、自分にとって正当な対価であるとまず自分が期待したことに気が付くべきだ、とアドラーは言いたかったのかもしれません。

私たちが誰かの成長を信頼するとき、その誰かの結末は、私たちの手のひらの外にあるかもしれないことを、年長者や上司は、よくよく認識すべきであると思います。

78.自分は役立っている、という自己満足

「自分は役立っている」と実感するのに、相手から感謝されることや、ほめられることは不要である。
貢献感は「自己満足」でいいのだ。

上述した、正しい愛の分配法の教育と、自らによる適切な自己評価の醸成は、このアドラーの言葉にも後押しされます。

自己満足でよい、とは、貢献したことを証明する文書や表彰状がその都度貰えるわけではないし、頑張ってやったことに、「ありがとう」とか「いつも助かってるよ」という言葉がつねに投げかけられるとも限らない、という意味合いを含んでいると思います。

街中で誰かの重そうな荷物を持ってあげたり、車いすや足の不自由な人を助けてあげたりしたとき、それを思い出して、ちょっといい気分になれたりすることが、おそらく重要なのでしょう。

「あなたはいつも社に貢献してくれているよ」という言葉がいかに貴重であるかは、勤め人ならおそらくほとんどの人がうなずいてくださると思います。

貢献感は、自己満足でよいことには同意します。けれども、お金のかからない「あなたが必要だ」、「あなたは貢献してくれている」という上司の言葉は、もっともっと増えてもいいと私は思います。

79.正しい判断の絶対的な基準

判断に迷った時は、より大きな集団の利益を優先することだ。
自分よりも仲間たち。仲間たちよりも社会全体。
そうすれば、判断を間違うことはないだろう。

社内の不正を見つけてしまったら、社会のために、それを通報できるでしょうか。

私の知人は、官僚だったころ、仲間のために仕事は正直できていない、と言っていました。しかし、アドラーのことの言葉は正しいと思う、とも語ってくれました。彼は精神を病み、長い休職の末、現在は、民間企業で生き生きと働いています。公僕だった頃よりも、今のほうがずっと社会の役に立てている気がする、と彼は恥ずかしそうに語っていました。

組織とは、一体何なのでしょうか。

80.理不尽な要求を断る勇気を持て

理不尽な上司や学校の先生に、むりやり認めてもらう必要はない。
市場価値の高い人間になればいい。
より大きな共同体で考えればいいのだ。

前項で触れた私の知人は、ずっと昔、省や、自分自身のためにいかに嘘をついていたかを悔いていました。

いじめに遭っている子を持つ親にも、このアドラーの言葉は知ってほしく思います。学業など、あとからいくらでも取り戻しがききます。しかし命が失われてしまったら、二度と取り戻すことはできません。

定年後に定時制高校で学び直す人や、高齢になってから大学入学を果たす有名人もいます。

管理職や医師、弁護士や警察官、学校教諭や議員にさえ倫理観、道徳観に欠けた人はいますから、社会的地位が高いと思われがちの、実は市場価値の低い人に認められることに身をやつしていないかどうかを考えてみることは、決して無用ではありません。

83番と100番のアドラーの言葉も、併せてお読みください。

81.ダークサイド

「勇気」とは困難を克服する活力のことだ。 勇気のない人が困難に出合うと、人生のダークサイドへと落ちていってしまうだろう。

私にも経験がありますが、執念というものは、ときに、身を滅ぼしかねないほど消し去りがたい場合があります。私はかつて犯罪被害に遭い、その被害で受けた痛みと傷のために、容易に消せない憎しみと怒りが心を蟠踞したことがありました。それはまさに漆黒の炎ともいうべき極めて強い怨嗟であり、いっときはその感情をコントロールすることさえ困難でした。そして、その傷と痛みの記憶は決して消えないのです。記憶をよみがえらせたときに、味わう心痛が、年を追うごとに、少しずつ和らぐだけなのです。

私は、そのどす黒い憤怒を、たくさんの人の力を借りながら、徐々に減らしていきました。私は、それを勇気と言うのだというアドラーのこの言葉に慰められ、励まされもします。けれども、犯罪行為を許すことができたかと言われれば、その答えはいまだに否です。

ダークサイドへもし私が落ちていたとするなら、それは私が復讐という行為を選択していたら、ということになるでしょう。

私は職業上、犯罪被害に遭われた方のお話を聞くことがありますが、私の経験が役に立つのは、この時だけです。ほろほろと涙を流される方、激発する感情を顕わにする方、さまざまですが、私はその真っ赤に焼けた鉄のような激情を知っているので、想像するしかできませんが、という言葉を使わずに済みます。患者さんの塗炭を、共有してあげられるのです。

困難を克服しようとするとき、ダークサイドへ落ちることを踏みとどまらせてくれる仲間も、ときには必要なのです。

82.他者への貢献感が、自己価値を高める

人は「貢献感」を感じ、「自分に価値がある」と思える時にだけ、勇気を持つことができる。

自分には価値がない、と感じながら生きている人は、存外多いものです。

仲間が多い人は、自己評価も高い傾向にあることは、私も同意します。けれども、その自己評価が極めて独善的であるケースも多々あります。大企業の幹部や、中小企業のトップの地位にある人に、特にその傾向が顕著です。一部の人間に対して絶対的な権力を得ると、貢献感や自己評価は肥大し、モラルから逸脱する場合があるのです。健全な貢献感と自己評価は、批判に耳を傾けられる襟度と同居しなければなりません。

学生、生徒、あるいは低所得者や家庭内の地位が弱い立場にある方の場合は(ときには自傷行為を伴うケースもあります)、貢献感と自己価値の再構築は非常にデリケートな対応が求められます。

しかしながら、医師や看護師、ケースワーカーのいずれか一人とでも気の合う関係を築けた場合は、徐々に自己価値の再構築が進み始めます。

83.他人の評価を気にすることこそ無価値

他人の評価に左右されてはならない。
ありのままの自分を受けとめ、不完全さを認める勇気を持つことだ。

家庭内で、自分の価値が非常に低いと長年思い続けて過ごしてきた方はとても多いと感じます。私の統計では、若年から高齢まで、女性の方が圧倒的にその割合を多く占めます。

フロイトもそういった実体験の中から、精神分析を行いました。

他人の評価に自分を合わせようとすると、どうしても背伸びする格好になってしまい、背伸びしてもそこへ届かず、あるいは日常的に背伸びすることに疲れてしまって、貢献感も自己評価も必然的に下がります。

背伸びしない、ありのままの自分の姿をそのまま自己評価させ、ありのままの自分で、自分に満点を上げられるよう導くのが、本来の精神科の役割と私は考えます。

100番のアドラーの言葉も、合わせてお読みください。

84.褒めることがふさわしくないこともある

ほめてはいけない。
ほめることは「あなたは私よりも下の存在だ」、「どうせあなたにはできっこない」と相手に伝えることに等しいからだ。

これは、ケースバイケースなので注意が必要な言葉だと私は思います。

日本語検定の1級を持つ中国籍の方に、「日本語が上手ですね」と伝えたところ、彼女は非常に喜んでいました。また、「今度の論文には、非常に感銘を受けました」という言葉にも、変な顔をされたことはありません。

話し方やトーンにもよるのではないか、と思います。

85.失敗した課題を、教育者は取り上げてはいけない

失敗や未熟さを指摘してはいけない。できないからといって取り上げてもいけない。相手の勇気を奪ってしまうからだ。
(それらの行為は)自ら困難を克服する機会を奪ってしまうのだ。

これは、子育て、職場のどちらにおいても、非常に言い得て妙だと思います。

冒頭でも述べましたが、罪や罰というアイディアは、私の実体験からも、心を腐らせ、幸せをとても効率よく破壊するのです。

職場であれ家庭であれ、失敗を繰り返しても仲間はずれにはしないよ、罰しないよ、というアイディアが、憲法のように上位にあるべきです。

挑戦が、仕事や人生と同義となったとき、モチベーションは最高潮となり、生き生きとした人生がスタートするのです。

86.新たな設計図と、その可能性を把持する

人の心理は物理学とは違う。
問題の原因を指摘しても、勇気を奪うだけ。
解決法と可能性に集中すべきなのだ。

シチュエーションにもよりますが、より幸福に近づくための未来を建設するには、過去に建てた家の設計図の欠陥をあれやこれやと探すより、より新しく洗練された設計図を作り、さっさと新築に取り掛かったほうがよいでしょう。

欠陥を精査することは重要なのではないか?とお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんが、人生における欠陥、失敗は、たいてい非常にわかりやすいので、原因究明に悩む時間と、悩んだときに生じる懊悩の方こそ、避けるべきなのです。

つまり、建設に失敗した家の設計図を眺めていても、新居は完成しない、ということです。あなた自身のために、新居に引っ越しをしましょう。

87.失敗と未熟は、無価値では決してない

人の行動の95%は正しい行動である。
しかし私たちは「当たり前だから」とそれを無視してしまう。
わずか5%しかない負の行動に着目してはいけない。

前項の続きですが、失敗や未熟さという特性を、無価値と結びつけることほど、子育てと組織に不要なものはありません。

失敗と未熟は、どんな人間にも存在する特性だからです。いかなる立場の者も、他者の失敗と未熟を、劣等と位置付けてはなりません。

とくに、他者をなじったりけなしたり、嘲笑、嘲弄することは、精神保健の対極にある、忌避すべき行為です。

88.ポジティブディクショナリー

「暗い」のではなく「優しい」のだ。
「のろま」ではなく「ていねい」なのだ。
「失敗ばかり」ではなく「たくさんのチャレンジをしている」のだ。

89.愛は共感力

大切なことは「共感」することだ。
「共感」とは、相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じることである。

現代日本社会において、これができる人はまれです。

日本人は元来、協調性の高い民族なのですが、同時に、「私は今苦しんで、追い詰められている」と大きな声で周囲に言えない社会でもあるのです。そして、その声を聞かない社会であることが、私が最も懸念することです。

自殺することを選ぶよりなら、死にたいほどの恥をかく方がまし、私はそう思います。

先にも触れましたが、憲法で保障されている幸福を追求する権利を、公的機関の事なかれ主義が蹂躙していることに、日本国民はもっと目を向けるべきです。

90.I message

命令口調をやめて、お願い口調や「私」を主語にして伝えると、それだけで勇気を与えられるだろう。

これは、~しなさい、を、私はこうしてほしい、という言い方にかえると角が立ちませんよ、という意味です。

91.「ひどい!」「最低!」を「私は、~したかった」に置き換える言い方

「ケーキ、食べちゃったの?ひどい!」などと怒り、睨みつけてはいけない。
「食べたかったなぁ。残念だなぁ」と伝えるのだ。

90番の具体例です。

実は私はこれを100%実践してはいません。時と場合によります。非常に重大なことに関しては、この話し方が不適切である場合もあります。

92.失敗することを、教育者が恐れないこと

「まだ無理だ」と思っても、やらせてみる。
失敗しても「今度はうまくできるはず」と声をかけることが大切なのだ。

親や指導者に向けられている言葉です。

現代日本社会では、真に他者を指導できる人材が、極めて不足してきています。

幼稚な高齢者がどんどん増えていますし、子供が子供を育てる家庭は増加の一途をたどっています。男性は軟弱化し、子供や精神的未熟者を時には叱れる人は、ほとんど見られなくなってきています。

あなたの身近にそのような人がいたならば、あなたは幸福です。子供を子供扱いできる大人に、私たちはならなければなりません。

大人

街中で、モラルに反する行為をしている若者がいたとしましょう。あなたは注意します。「そのような事をしてはいけないよ」。彼らは反論します。「なんでお前にそんなことを言われなきゃならない?」――さて、あなたはどう答えますか。

「私は大人で、お前たちは子供だ。大人は、子供を正しく導く義務がある。お前たちを愛するがゆえに、大人である私は教えるのだ」。

93.あなたの子は、開拓者パイオニア

甘やかすと相手の勇気を奪ってしまう。
手助けしたり、ちやほやしたりするのではなく、独り立ちの練習をさせよ。

子育てに関して言えば、私は、小さな達成をどんどん褒めるべきだと思います。

たとえ話をすると、子供の進むべき道が、ジャングルの草木を切り開き、前に進むことだとするなら、道を切り開くのは親であってはなりません。また、進むべき方角も、親は指示してはなりません。

転んだり、手を怪我したりしたときは手当てし、大きく歩を進めたときは、称賛し、応援すればよいのだと思います。

手当てとは、なぐさめ、再チャレンジを促すことです。たとえ話の中の、子供が道を切り開くために振るうナタを親が取り上げたり、さび付かせたりしてはなりません。

94.次のチャレンジのヒントを与える育て方

間違いを指摘せず、原因究明という吊るし上げもせず、「こんなやり方はどうかな?」と提案する。
これこそが、相手を育てる有効な方法である。

前項のたとえ話の中のナタの性能や持ち方、振るい方は、子供によってさまざまです。ナタは刃物ですからたとえとして不穏当に聞こえるかもしれませんが、決して安穏、あなたにとって優しいばかりとはいえない世知辛い世の中を、あなた自身も必死で切りひらいてきたことでしょう。

あなたの分身ともいえる子供が、あなたと同じく失敗を繰り返しながら成長していくことは、本来あなたにとっても非常に勇気づけられる出来事のはずです。

後進の指導であっても同じです。後輩や部下たちに常に不満を持っているなら、あなたは自分の人生とこれまでの生き方に、まず不満を持っているのだということに気付くべきです。

大人になること、昇進することの責任は、非常に重大です。子や後進たちの行いの責任をとるのが先達であるのに、責任追及が得意であるなど真逆であり、はなはだしい勘違いです。

95.過去でも未来でもなく、“永遠の今”を見つめる

楽観的であれ。
過去を悔やむのではなく、未来を不安視するのでもなく、今現在の「ここ」だけを見るのだ。

人生というのは不思議なもので、幸福な人はいつも幸福で、不幸せな人はいつまでたっても不幸せです。

ただしこれは救いがたいということを意味しません。幸せは、目的地ではないのです。幸、不幸とはいわば心のチャンネルを、幸せと不幸せのどちらに合わせるかを意味し、どちらの方角へ向かうか、あるいは向かっているかを意味しないのです。

あなたは、自分が幸せだと思った瞬間に幸せになるし、不幸せだと思い続けていれば、いつまでも不幸せです。いつになったら幸せが訪れるのだろう、という考え方は間違いです。あなたが幸せかどうかは、あなたが心の中の幸と不幸のスイッチを、どちらに入れるか、たったそれだけにかかっています。他の何者も、医師も恋人も仲間も友達も、そのスイッチに触れることはできません。

この絶対的な真理を、強く銘記してください。絶対に忘れてはなりません。

楽観主義者への恵み

幼少期に、この幸せのスイッチをずっと入れっぱなしにしている人がいます。しかし、私はこの文章を、スイッチを不幸の方へ入れている方のために書いています。

幼少期に幸せスイッチを入れている人は、幸福な家庭に育ったからだとあなたは思うかもしれません。しかしそれは違います。私は、夫婦仲が悪く、非常に暴力的な父と、男嫌いの母親に育てられた男性を知っています。彼は、楽しく過ごせる仲間を見つけ、音楽を愛し、渡米して様々な経験を積み、帰国して幸せが集まる店を開きました。その間、彼はまったく裕福ではありませんでした。それなのに、自分はとても幸福だと私に語ってくれました。

不幸な家庭は不幸の土壌ではないのです。不幸を見つめ、楽しみに目を背ける心の癖を、いつのまにかつけてしまうことだけが、不幸の源泉なのです。そしてその心の癖は必ず直せます。

夏目漱石の手紙

森田草平宛 明治39年2月13日

君、弱いことをいってはいけない。僕も弱い男だが、弱いなりに死ぬまでやるのである。やりたくなくったって、やらなければならん。

君もその通りである。死ぬのもよい。

しかし死ぬより美しい女の同情でも得て死ぬ気がなくなる方がよかろう。

人間として僕は決して君の師表たるような資格はない。しかし世の中に、こんな偉い人間になってみたいと崇拝するような人間は一人もない。

だから君も君で一人前で通りていけば、それで一人前なのだから構わんではないか。

96.善が動機の問題行動

行動に問題があるとしても、その背後にある動機や目的は必ずや「善」である。

この言葉には私は同意できません。

97.その問題は誰の所有か

あなたが悩んでいる問題は本当に「あなたの問題」だろうか。
その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。

98.自分の機嫌は自分でとれないのは、精神的幼稚さの顕れ

妻(夫)の機嫌が悪いときに、夫(妻)が責任を感じてはいけない。
不機嫌でいるか上機嫌でいるかは、妻(夫)の課題。その課題を勝手に背負うから苦しいのだ。

95番の「楽観的であれ」と似ていますが、幸か不幸かは、あなただけが決めます。

誰かが何かをしてくれない、という論理は、何もしてくれない誰かに囲まれている場合、絶望的な状況に陥って脱出不可能ということになってしまいます。しかし、そこから脱出している人が実存することが、これが真理でないことを物語っています。

機嫌の悪い人は無視せよ

これは夫婦間に限ったことではなく、職場の上司、仲間にも言えることです。

きっと思い当たると思いますが、職場の一人、上司でも仲間でも、機嫌の良し悪しが、皆に伝わるタイプの人がいるでしょう。みんなになぜかいつも、おべっかを使われている人です。

あなたはこのような職場にいつまでもいる義務などこれっぽっちもありませんが、収入が途絶え、再就職という難関が立ちはだかるために、その決断はいつも先延ばしにされます。

私が言いたいのは、皆におべっかを使われないと機嫌を直せない人に原因があるのではない、ということです。機嫌が悪い人の機嫌を直そうという、周囲の人たちにあなたが流される必要はこれっぽっちもない、ということなのです。

機嫌が悪い人に近寄ってはなりません。ただし職場であってはそれは難しいでしょう。しかしながら、あなたが決然と幸せになりたいと思うなら、決然と機嫌の悪い人を無視する必要があるのです。

99.毒親を見極めろ

それが「あなたの課題」ならば、たとえ親に反対されても従う必要はない。
自分の課題に足を踏み込ませてはいけないのだ。

100.嫌われることを引き受ける役目を持つ人

陰口を言われても、嫌われても、あなたが気にすることはない。
「相手があなたをどう感じるか」は相手の課題なのだから。

嫌われることを恐れて誰かに合わせる人は、とてもたくさんいます。悪い意味での、長い物に巻かれる人です。

あなたを嫌う人を、あなたが好きになる必要などさらさらありません。あなたはその人と距離を置き、完全に決別し、思い出すこともなくなるのが理想です。

神や宗教でなく、愛や善性を信じてください。愛と善性に心を沿わせることが、あなたを完璧に守ります。それは処世術ではありません。宇宙の物理法則に従うことなのです。

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